2019年08月01日

無知は愛を大きくするかもしれない?

イエスの弟子、使徒ヨハネが書き残した手紙から引用します。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
(中略)
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。


人は無知で完璧ではない。これが人生を面白くするのだ。
私はそう思っています。

何をやらせても完璧。誰の目から見ても申し分無い。
容姿端麗、成績優秀、なんでもそつなくこなしなんでもよく知ってる。

私はこういう人が1番世の中で不幸だと思います。こんな人がいたらですけど。

人生の良きパートナーも友人も欲する必要がありません。また、周囲の人を遠ざけてしまう面もあります。

疲れるし、対比されれば億劫だし、手を借りる事があっても貸す事が無い。
してもらう事ばかりが積み重なって、返せないという苦痛があります。

キリスト教の歴史に『グノーシス派』がいます。それにも色々派があるのですが、基本的な考え方にこういうのがあります。

「神が完全であるなら、何故不完全な世界や人をつくったのか?」

完全な神が不完全なものを作った事に理由をつけたのが彼等です。
エデンの園にあった食べてはいけない木の実。それを食べるようにそそのかす蛇。

「蛇は、不完全な人が完全になれる知識を人に与えた。神は、人を仕えさせる為に作ったので、人が完全になれる知識を隠したのだ。」
こんな感じ。
だから、彼等にとっては蛇は良い者であり、完全な神が悪という逆転現象が起きています。




聖書を知っていても知らなくても、人は『愛』を探すじゃないですか?

家族愛、隣人愛、兄弟愛… 色々な愛を探して見つけては喜び、失っては悲しみ。
年頃になると(独り立ちの準備期間に入ると)自身が育む愛を探します。

何故愛を探すのでしょうか?
人や世が不完全なように作られているのは、互いに愛し合う事によって完全となるようにつくられているからです。それは自身を愛する事も例外ではありません。

聖書を知っているキリスト教徒にとっては『愛を探す』事は『神を探す事』と同じです。
だから、『結婚』や『離婚』に対する考え方が違います。
『恋』は『愛の模造品』であり、無価値であると考える人も多いです。

私は無価値だとは思いません。逆に価値のあるものだとも思いませんが。その道(恋)を通る事で愛のようなものと愛を分けるのに役立つからです。続きを読む
posted by Mako at 07:16| 日記