馴染の無いその言葉は、まるで最近生まれて最近うるさくなったように感じます。
私は『コンプライアンスの正体』を述べたいと思います。
コンプライアンスとは型入れです。
就業なら『マニュアル』に従わせ、
就学なら『校則』に就業に従わせ、
社会なら『道徳』に従わせ、
宗教なら『戒律』に従わせるものです。
特に最近厳しくなったわけでも、最近できたわけでもありません。
ただ、表情が変わっただけです。
インターネットが、大人から子供まで、従業員から社長まで、公務員や官僚、政治家、教師と生徒、信徒と教祖までもが使うようになった事で、規律やルールやマニュアル等では意味の範囲が足りなくなったのです。だから、狭義では無くて、広義の意味での違反に対峙する言葉を生み出しただけの話です。
インターネットが大きな要因のひとつですが、企業と企業が絡み合う事やグローバルも影響しています。
何か問題があった時「マニュアル違反です。当社のマニュアルでは禁止されている行為です。」と企業が言えば魔法がおきます。企業の責任から個人の責任へ移動してしまうのです。
「会社は禁止しているのに守らなかった」と個人の責任へ責任転嫁できてしまうのです。これの『マニュアルの範囲外の事』までも含めて、個人に責任転嫁できるのが『コンプライアンス違反』という単語です。
言うなれば、洪水に備えて壁を高くしたようなものです。
これがコンプライアンスの正体です。
『コンプライアンス』の範囲を狭め、社会を小さくしていくと『レッテル貼り』と密接だという事がわかります。
長くなるので細かい事を省きますが、例えば犯罪者の社会復帰が難しい。この状況は、本人の更生の機会を奪う社会に原因があります。
1度した失敗や過ちという枠から絶対に出さずに閉じ込めておく。これが大きな要因です。
更生の機会を与えるという事は、公平な機会とチャンスを与える事でしか実現しません。
まぁ、しかし、本人が乗り越えなければならない壁でもあるのですが。
犯罪は自分で犯したものとも限らないのですが、通常の場合は本人が自分の考えで犯したものですから、あまり文句も言えませんね。
では、親が外国人だから。親や親類が暴力団の構成員だから。母子家庭で母親が夜働いているから。
こういうものはどうでしょう?
本人の問題ではどうにもならない事がつきまとうレッテルはどうなりますか?
私は、実際に、自分の置かれた境遇や環境で、学校からも教師からも、友人の親からも、他の子と区別されました。
だから、人を勝手に型に嵌める人が大嫌いです。
ここでものすごく誤解されるのですが、だからこそそこを卑下してとかねw
そう生きているとか考えているとかいうおまけがつきまとっています(笑)
正直言って、いつ帰るかわからない親を待って、お腹が空いて動けない時が子供時代には多々ありました。
だからと言って、「ただいまー」と家に帰って宿題をしたり入浴をしていれば晩ご飯が用意される子供に劣っていると思った事はありません。
冬の水が冷たい季節に、あかぎれで真っ赤になった手でお米を洗っている時、TVを楽しんでいた友達に見下される覚えは無いと思っていました。
学校で「昨日のあれ見た?」とTV番組の話をしている中で「えー?見てないの?」とバカにされても、寝るまでに片付けをしておく事の方が大事です。翌日の朝、30〜40分の時間が違いますから。出来るだけギリギリまで寝ていたいのです。特に冬は(笑)
こんな事だって、それをしていない子にバカにされる覚えも無ければ、特に羨ましいと思った事はありません。
羨ましかったのは、遠足や運動会のお弁当です。母親が作ったお弁当の綺麗さを横目に、自分のお弁当を開けるのは恥ずかしかったのです。とはいえ…母親がいたからと言って…
あの人の弁当は… うーん。何と言えば良いか… センス以前に料理があまり上手じゃ無いというか…

「焦がさないように焼くのは難しいですか?」ってな感じなので、大きなダメージでは無かったような気がしないでも無いが(笑)
友達や他の同級生から、その親から、見下される覚えは無いのです。だってやらない子供とやらせない親でしょ?
やるしか無い私の気持ちなんて理解できるわけが無いから、それについて話さないし。ねぇ?
それでもからかう子や意地悪言う子はいましたよ。「お弁当可愛くなぁ〜い!可愛いお弁当の子だけで食べたいからあっち行って!」なんて言われて1人で食べた事もあります。
近くのグループの子が「こっちおいでよ。一緒に食べよー!」と声をかけてくれたけど(笑)
もう誰がと一緒に食べる気分じゃないというか… その子には悪かったけど「いい。1人がいい」なんて言って断ってました(笑)
その日は、近所の鶏肉専門のお惣菜屋さんで買った唐揚げが入ってたお弁当だったの。1人皆に背を向けて隠すようにしながら、お弁当箱をパッカーンと言いながら開けて、空を見ながら食べました。
空は神さまが作った大きなものだけど、大地も空も、神さまが造った物の中にいる。だから私は大丈夫!そうやって心の中を確認しながら食べてた。
この様子をね、「背を向けて1人で食べちゃって…」と、勝手にいじけてると決めつけられるのはむかつくのよ。「可愛いお弁当の子とだけ食べたい」と除外される事には、そりゃ傷つくさぁ。もちろん。
でも、1人で食べるとなれば、まず食事前の祈りができる。みんなと一緒だったらできない。
身の回りの物を見て、神さまの造った世界を堪能しながら食べられる楽しみがあるわけで…
鳥も、空も、木も、花も、風も、全部聖書に出てくる。それを見て書かれている事を思い出しながら外で食べるお弁当に、私は感謝していた。大好きなイエスさまに。
それに、その鶏肉専門のお惣菜屋さんの唐揚げは超美味しいの!大好物だったのよ!だから気分もアゲアゲだったんだよ。買うと高くつくものなんて普段買わないわけで… 買ったものとは言え、私にはご馳走だったのさ。
余計な話が増えたけど、その時の事を見ていた子がそれを記憶していてね…
「いじけて1人で食べてたよー」と勝手な事を言われたら迷惑なのよね。せめて「自分にはそう見えた」ぐらいの言い方してほしい(笑)
でも、その子がそう言ったとしても、そこに悪気があるか無いかは私にはわからない。それでも、その子が家に帰ってそれを親に話し、その親が別のママ友に話しってなるとさ。結局レッテルが残るんだよね。
レッテルってさ、例えば親が反社会的職業についていたとしても「自分はそうはならない」と思っている子だっているわけなんだけど「カエルの子はカエル」に追い込んでしまう悪を持ってるのよ。
それについて厳しい言葉を言う人々が、新しいそれを作ってるって事があるの。
身近にいない人にはわからないだろうけど。
それを少しずつ大きくしていったものが、日本社会に蔓延る日本特有の『自粛型コンプライアンス』なんだよね。
『コンプライアンス』って、責任をどこに向わせるかの指標みたいなものなのです。また『自粛』や『自主規制』を軸に置くので、破った時の叩き方がえげつない。
芸能人の場合だと「2度と表に出てくるな!」なんて事まで強いる。
はっきり言って、コンプライアンスなんてものは、崇高そうに掲げれば掲げるほど社会を小さくするし自由が減る害虫のようなものです。
道徳的や倫理に反するなら、道徳的で倫理の枠内で対処すべきです。その枠から出て誹謗中傷するのは、それもまたコンプライアンス違反で跳ね返ってくるんですよ。
「カエルの子はカエル」を作る人々も、それが嫌だとか許せないと行き過ぎた拒絶をした結果、新しいカエルを作ってるのと同じです。