2019年10月04日

定義 (6)



Jesus。イエスキリストを指して使います。

「上手い」
「可愛い」
「綺麗」

こういうものを卒業したら、それぞれの個性に合わせて、色々なシーンで活動していきますね。レコード会社やAssociationがあって…
うーん。それでも私は、教会の中で組んだchoirやグループが1番素晴らしいと思いますね。

賛美にも多くの種類があるけれど、告白する歌も信じる歌も、讃える歌も、わかちあう人達とするのが1番です。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
Uコリ5:17





都市伝説や考察として語られているイエスキリスト。この事に悲しみが湧き上がったので書き続けています。

(くだ)てきた神、イエシュア。彼は、人として登場するまで居なかったわけではありません。

旧約聖書にあるイエスについて、モーセの出エジプト記を選びたいと思います。
書き始めた原因となった人々が、モーセについて何度か語っていたからです。

もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。
ヨハネ5:46〜


ユダヤ人達に、イエスキリストが言った言葉です。

紀元前1526年頃モーセが誕生し、紀元前1445年頃、シナイ山で十戒を授かったとされています。(大まかな目安ですよ)
だいたいですが、26世紀頃イエスキリストは、世に誕生しています。

私は先程の聖書箇所から、モーセの歌を思うのです。イエスキリストが語りかけた相手は、キリストを十字架刑にする人々ですから。

主をそこない、その汚れで、主の子らではない、 よこしまで曲がった世代。
あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。

〜中略〜

自分を造った神を捨て、 自分の救いの岩を軽んじた
申 32





さて、上記とは別にですね…
もう一箇所引用しておきたい箇所があるのです。

モーセは神の友とも呼ばれます。その根拠となる聖書箇所です。

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。
出33:11


そしてもうひとつ。

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

〜中略〜

「あなたは わたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから である。」
また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
わたしが手をのけたら、 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。
出33:20〜23


2箇所同じ章から引用しました。
一方では『モーセと顔と顔を合わせて』とあります。
逆に一方では『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから である。』とあります。

こう考えてみて下さい。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。


顔と顔を合わせてモーセに語った(しゅ)は、受肉前のキリスト。

顔を見る事が出来ないのが神とともにあったとされる(しゅ)

普通、受肉前のキリストと言えば、アブラハムを選ぶと思うのですが…

えっと、実はこの聖書箇所についてはこのような言い方をすると、まるで個別の神のようなのですが…

ことばがことばを発する者無しに存在できないじゃないですか。
ことばを持つ者がことばを発する前から、ことばが独立して存在したら?それも変じゃないですか?

ですから、これはひとつのものなのです。今、聖書に書かれた受肉前のキリストについて書いています。
それをわかりやすくするために、このように個別のものとして扱っています。

モーセは「あなたの栄光を輝かせてください」と願いました。

これは十字架刑に向かう前、イエスキリストが弟子たちに語った事です。


今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
ヨハネ17:5


『世界が存在する前に持っていた栄光』と書かれていますので、そこに戻りましょう。



『初めに、神が天と地を創造した。』

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
創1:1〜


この箇所は、というか創世記は、翻訳された文章よりも、ヘブライ語で読んでこそよくわかる。それが天地創造とその経緯なんですよ。
どうしましょうか?
このまま突っ切りましょう。細かく拾えないので。
ここでは昼と夜を区別するので、太陽と勘違いされやすい箇所です。

新約聖書に戻り、ヨハネの冒頭をもう一度見てみましょう。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ1:1〜





どう言いましょうか。

まず神は霊です。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネ4:24


霊なので、その姿を現す場合…その性質に応じた形を取ります。
人の形を取る事もあれば、空を飛ぶもののような形も取れます。
そして、時間という支配の中にはいません。(とき)を造られた神は、時に支配されません。逆です。支配するのです。
だから同時にその場に存在する事も出来ます。

光は神の栄光です。

『地は茫漠として何もなかった。』
虚無や混沌の中にただひとつだけ光る神の栄光。
そしてそれは、いのちです。

神のことばは、神から出る力のようなものです。これは神のことばとして発せられると、神の御心を完全に成し遂げて神に帰るものです。

わたしの口から出るわたしのことば も、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
イザヤ55:11


人の理解力で解ろうとしても無理です。 御霊 (みたま)の働きにより、ようやく人に解るものでもあります。
とにかく、人が考える神の定義は、(ちり)のようなものです。役に立ちません。捨てましょう。




神と顔と顔を合わせて、友のように語ったモーセ。
モーセは神とそのように語り合いながら「栄光を見せてください」と願います。
何かの仏像のように後光があるイメージも捨てなければなりません。

モーセほど、神の現れの種類を見たものはいないでしょう。
彼が創世記から始まるモーセ五書の元となるのは初めから、彼が生まれる前から決まっていたのかもしれません。




旧約聖書を読むとき、人と同じ肉体を持つ前のイエシュア(イエス)を探して読むと面白いですよ。

今日書いた事は、クリスチャン達は、霊によっては理解していても、人智によっては理解しきれない(見ていないものは理解できない)事なのですよ。
教師達も多くの言葉でそれを解き明かそうとしています。




posted by Mako at 23:22| 聖書関連

定義 (5)



教会音楽にも、世界中の芸能界の人がいるんです。元芸能人も現役芸能人もいます。場合によっては「あの人の口パクでは無い生歌を、こんな場所で無料で聴けるとは!」という事もあります。
久米小百合(姉※クリスチャンが使うsisterの意味。尊敬の意を込めてつけています))は、過去『久保田早紀』を名乗り歌手をしていました。『異邦人』という曲が有名だと思います。
だから、元芸能人のクリスチャンミュージックの歌手です。
もっと透明感のある声なのですが、これは音がちょっと…




教会音楽というものは
「僕、歌上手いでしょ!」
「見て!私可愛いでしょ?」
「どう?この演奏技術♪」
このように前に出てこようとする人は、壇上から下げるべきなのです。

理由は他にもありますが、テーマが『定義』なので、それに合った理由をあげたいと思います。

教会音楽のゴスペルは『神のことば』の略です。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。


神のことばを取り扱う教会音楽は、世にあるそれとは違います。

牧師や神父、伝道師や宣教師、証者として立てられた者達が行なっている、日本語では『説教』と呼ばれるものは、神のことばの解き明かしをしています。

簡単に言うと、教会音楽も教師達の説教も『神を人々に現している』のです。
どちらも、その場にいて味わうのと、録音を聞くのでは全く違います。

賛美(クリスチャン達が神を(たた)える歌)は神の 御座 (みざ)を作ります。歌手や奏者が居なくてもです。
私は『説教』と呼ぶ他に、何か良い呼び名は無いのか?と思うのですが(笑)
クリスチャン達が祈ると、神が集まった人々の間に臨在(りんざい)します。
牧師や神父、伝道師や宣教師、証者として立てられた者達が、神を解き明かす事によりひとつになります。

これは流れの一例ですが、自分を、自分の技術を見せたい人が前に出ると、ただのコンサートになってしまいます。
注目されるのも、(たた)えられるのも、その人になってしまいます。

「可愛いでしょ?」
「美しいでしょ?」
「上手いでしょ?」

全部反キリストの精神です。神を蔑ろにして自分を高く上げるのですから。

イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
ヨハネ8:54


無神論・無宗教は illuminato(イルミナート:複数形はイルミナティ)された者達の最高作品(創造物)です。その性質を受け継いだ子のやる事になってしまいます。
illuminato(イルミナート)は、究極の自分教だからです。

あー。本題からかなりズレてしまいました。本題に進みます。




聖書の神について考えるとき、『私達人間が定義している神』の概念を捨てなければなりません。
それは『人が神として祀るもの』の定義だからです。

人として世に生まれたイエシュア(イエス)についてもそうです。

イエシュア(イエス)は修行をした成果や、悟りを開いたとか、優れた能力があったので神になったのではありません。
人として世に生まれる為に降ってきた神です。人が考えているのとは逆です。

神々を生む母である女神、バビロンの大淫婦の生むそれも違います。
Dの意志とやらで語られているのがそれです。シンボルひとつひとつを解いてもすぐにわかります。
それは聖書の初めの書から預言されてきた(いにしえ)の蛇の子なのです。




聖書を読むとき、神についてひとつの定義が追加されます。

受肉(じゅにく)前のイエスと受肉後のイエスです。
彼は、処女(おとめ)マリヤを通って女の子孫として生まれる前からいるのです。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。


天地が造られる前からいるのです。

聖書では、基本的に子孫の事を子と言います。


パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」
マタイ22:41〜45


キリスト(救う者、救世主)は、ダビデの子として生まれる事が預言されていました。
キリストはダビデの子(子孫)以外にはあり得ないのです。

しかしダビデは、キリストを(しゅ)と呼んだのです。これは、『神の名をみだりに唱えてはならない』というモーセの戒めを守る呼び方で、名を伏せた神の呼び名です。

聖書とモーセの律法に詳しい、わかりやすく言えば、神殿の聖職者のような存在ですね。彼等にキリストが問いかけました。

その意味を彼等に悟らせたかったのです。

posted by Mako at 07:58| 聖書関連

定義 (4)



イエシュア。イエスの正しいヘブライ発音です。イエスより良い響きでしょう?
YouTube上で賛美やゴスペルを探しても、曲数が少ないですねぇ。
gospelは神の言葉の略なのよ。聖書の別名は神のことば。
音楽ジャンルのゴスペルは、教会音楽のゴスペルを真似た模造品なのさっ!




聖書の神について考えるときは、人が思っている『神々』の定義を捨てなければならない。

歴史をみるときもそうでしょ?現代の価値、現代の基準で過去を見ることはできない。
だから、その当時の法律だって、現代人には不道徳に思えたりする。

イエシュア。彼は誰なのか?
ヨハネの福音書では、冒頭にこう言っています。


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1:1〜5


たまには塚本訳(内村鑑三系の聖書研究家が個人訳した聖書)でも読んでみます?


(世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
この方は(世の)始めに神とともにおられた。
一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。
この方は命をもち、この命が人の光であった。
この光は(いつも)暗闇の中に輝いている。しかし暗闇(のこの世の人々)は、これを理解しなかった。


新改訳より具体的な感じがしたので、わざわざ個人訳聖書を引用しました。
両方読むと、少し立体的になりますよね。

同じ福音書でも、マタイは冒頭に、イエシュアの系図から書き始め『預言されていたメシア(救世主)である正当性』を語っています。




一度整理しましょうか。

Q:聖書の神とは?
A:天地万物の造り主であり、人を造った神で、命の(きみ)です。

ではこの聖書箇所は?

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


聖書の神の紹介ですね。
もう少し先を読みます。


この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

〜中略〜

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


塚本訳で、もう少し立体感をつけましょう。


この世に来ておられ、世はこの方によって出来たのに、世はこの方を認めなかった。
いわば自分の家に来られたのに、家の者が受け入れなかったのである。

〜中略〜

この言葉は肉体となって、(しばらく)わたし達の間に住んでおられた。(これが主イエス・キリストである。)わたし達はその栄光を見た。いかにも父上の独り子らしい栄光で、恩恵と真理とに満ちておられた。


本当は…個人訳はクセがあるし、所属する派の雰囲気が強いのでおススメしないのですが。
私は、個人的にはですね、他言語の聖書と比べても、口語訳が1番優秀だと思っています。
新共同訳と新改訳のちょうど良いところ(翻訳具合が)にいると思えます。

さて、話を戻します。

イエシュアは神のことばだと言っています。そして、ことばは神と共にあったと言います。
そして、ことばは神であると言います。

聖書の別名は神のことばです。
つまり、聖書の神とは?

神と共にあったことばが神で、神が天地を造った。裁判所の判決文のようにわかりにくいですよねー(笑)




これは、上手に説明しようと思うとね、多くの聖書箇所を引用するので長い文章になっちゃうんですね。

イエシュアは神のひとり子であり、世の万物を造られた方だと…
一旦そういう事にして次に移りたいと思います。

たまには個人訳も良いですね。


posted by Mako at 00:09| 聖書関連