2019年10月07日

胸がザワザワ

きっかけが都市伝説で書き始めたからね、まいっか!という感じで…
書き続けてるんだけど。

私の言い方や書き方は、きっと一部の教師に逆らうと思う。

見た事、見えてきた事、読んだ事、聞いた事、色々交差していて、内でわかっている事を引っ張り出してさ。それを言葉にするのは難しくて…たらーっ(汗)

たぶん、多くのクリスチャンが「わからない」と思ってきた部分に触れる事なので、もう少し慎重になるべきなんじゃないかと。

私もね、「わからない」って言ったのよ。元は。
色々見えなくなった時に。

宇宙でもない、空でもない、宙にいて色んな事を教えてもらう夢を見た時がある。
いろんなものを見ながら、父に手を引かれる幼児のように、なんでも目につくものを質問したかもなぁ。
それは、始まりに過ぎなかったんだけど。

その時知った多くの事は、何も取り出せない。そりゃそうよ。夢だもの(笑)

それに似てるなぁって思うの。
取り出せない事が。取り出せないというのはちょっと違うなぁ。取出せるけど、しまうしかないってやつか?

きっとみんな持ってると思うの。取出せる真理というか…ねぇ?

私が思うに、多分ね、必要なときのものなんだと思うよ。それが必要なときまでそこしまわれてるだけなんだろうね。
多分だけど。

もう少し慎重になるべきでは?と考えるのは、それはそれで無駄じゃないと思うんだが…が?…が?

こういう時は祈った方がいいね。
posted by Mako at 22:07| 一人じゃないよ

定義 (10)







米田さんの曲には名曲が多いけれど…
これは、キリストイエスの語りかけをよく表現できている曲だと思います。

人は、多くの事に傷つくけれど、時間がたってもどうにもならない事がある。落ち込んでもいられないので、忘れようとする。考えないようにしようとする。
キリストに出会った人の多くは、どんなに仲良しでも、家族でも、自分でも届かない、心の奥底にある傷に触れられた事がある人が結構いる。

味わった事の無い人は、何かの比喩だとか、神秘主義のように扱う。

魂を引き裂かれるようなあの想いも、嘆く暇も無く忙しくしていた事も、ただ時間だけがたったと茫然としている時も、主は共におられたではないか。
疲れていたあの日、あなたの目の前に、真っ直ぐあなたを見つめ、笑いかける者があった。それは、あなたがその日を迎える前に、主があなたの前に置いた。

その日々を主は覚えておられる。




親というものは、子供にとっては覚えておくに値しない事までも覚えているものですね。
私は、私の神、(しゅ)が、そのような方で嬉しいです。

祭祀として取られたイスラエル民族、その内のレビ人。彼等は、人が神を捨ててから再び出会うまでの間、1番神に近いところにいました。

それでも、背信が起こる。神が見えなくなるのは、人の苦痛です。

「私は神を捨てたりしてない」と人は思うのだけれど…
毎日捨てているんだよなぁ。

あの実を食べる前「それを食べよう」と思った瞬間に捨ててる。食べた後と前では、取り返しがつくかつかないかの違いしかない。




えっと…
なんだっけ?そうそう!生贄。
生贄を捧げるのに必要なものは祭祀です。
イスラエル氏族のレビ人がそれですね。

聖書の神は、大人も子供も、女も男も、年寄りも… 人を生贄として捧げる事を禁止していました。
けれど、知っている人は知っているでしょう。
イエシュア(イエス)は、私達の罪の為の生贄です。

「彼は人では無いのか?」と聞かれれば人です。
「人を生贄にする事は禁止されていたのでは無いのか?」と問われれば、全くその通りです。

人の命は人の命でしか代価になりません。私達の受けた死の呪いは、人の命でしかどうにもならないのです。

動物犠牲は、それが済むまでの間許された代替えです。だから、毎年毎年、何年も、何百年も、何千年も行われてきました。
『生贄となる人』がいないからです。

息子イサクを捧げよと神に命じられ、息子を捧げる為に山へ向かいました。


イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。
イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、 全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。
アブラハムは答えた。「イサク。 神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ 。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

創22:7〜8


信仰の父と呼ばれるアブラハムの答えです。
『神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ』

私達の罪のための生贄となったキリストイエスは、神ご自身が備えたいけにえの羊です。

これではまだ答えが足りませんね。キリストイエスは人ですから。

以前にも引用した聖書箇所をもう一度引用します。


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
イザヤ43:4節


この引用箇所は動機です。
次に詳細が来ます。


わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。 わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。
イザヤ43:10〜12


キリストイエスは、自分自身が人の為に捧げ物、罪の為の生贄の羊となった聖書の神です。
人の命は人で無ければ(あがな)えない。だから、その為に人となって生まれてきた創造主です。

罪を贖えるのは、傷の無い羊です。
人として世に(くだ)った以上、神に信頼して歩む信仰者でなければなりません。
だから、人となって生まれた彼は、父なる神として創造主である(くだ)っていない神の信仰者として生きたのです。

神に背いた人の罪の代価になれるのは、神に背いた事が無い人の命でなければならないのです。




人が神として祀る神々と同じに考えてはダメです。
全てを創り、全てを治める神は、時間も支配する神です。
天体や自然の神々のように、時間軸の中にはいません。

信仰者として、造られたままのアダム(このアダムは人を意味する代名詞的名称だと考えてください)として正しい人である為に、神の霊と(わざ)によって、女の胎を通って生まれてきたのです。

生贄を求める神々は古代からあります。けれど、神は人が自身で受けた死の定めから救い出す為に、自身の命を捧げたのです。

クリスチャン達は、これを理解するまで葛藤や疑心、色々ありました。
けれど、これを理解し信じるのも神の(わざ)によるのです。




もう一度定義を言います。
イエスキリストは、人が神になったのでは無く、神が、人となったのです。

イエスキリストの前にも後にも、メシアについて預言者達が預言した通りに世に出て、預言された通りに苦しみを受け、預言された通りに死んで葬られ、蘇った者はいません。

イスラエル民族の祭祀がいるうちに、祭壇と神殿があるうちに、罪の犠牲となりました。
その後で、預言されたメシアは出ようがありません。

2系統の中の1系統から出る子が残っているだけです。

神はクリスチャンの神では無く、全ての者の神です。
神が自ら降ってきて、人の罪を贖ってくださった事を信じる者は救いに入れます。これを読んだ誰でもです。
なぜ信じる者だけなのか?全てが人の背信から始まったからです。
背信をやめるきっかけが、イエスを遣わされた救い主と信じる事なのです。




キリストは、私の命です。彼の命によって、私は命を得ました。
だから、遊び話に使われるのはとても悲しい。
私の事を言われているのと同じだから。

話を戻して…
祭祀が必要だった理由がわかりますかね?
後の贖いのためです。

聖書は、神の救いの計画書と言う事ができます。
天地創造の大きな話から、急に民族史のようになるのはこの為です。

レビ記や民数記は、いかにイエスが、生贄の手順通りに血を流したかの参考になります。

私も実は…
あの辺の書は苦手なんですよ。読んでいて退屈しちゃうダメな子っぷりが露呈する事も頻繁にありますです。

そんな祭祀の勤めと手順、種類、こういうものに詳しくない異邦人の中で新約聖書が完成しています。
新約聖書はキリスト以降です。
posted by Mako at 17:40| 聖書関連

定義 (9)





頻繁に日本語不自由なダメな子ですみませんですw
思いつくままに整理せず書いているので…ふらふら



神が神の祭祀を作った事は、奴隷のように人を従えて、金品や命を奪う為ではありません。

  1. 人と神の交わりを回復するため。
  2. 預言者を立て救いに入らせるために。
  3. 預言者の預言を成就(じょうじゅ)する事で、神の御心(みこころ)を現すために。
  4. 霊においても肉においても、滅びに属する者の無い新天地を造るために。


聖書の神創造主(そうぞうぬし)は、10分の1の献金を定めました。
これは、貧しい人にとっては多く、金持ちにとっては微々たる金額かもしれないですね。

しかし、それは神殿や組織の維持費(神殿の祭祀とその家族の生活費を含む)等の経費と、病の者、障害者、親の無い子、夫を亡くした母、このような人々を養う分が入っています。
貧しい者からも10分の1を取るけれど、貧しい者から先に還元されるのです。

神が自分のものとして本当に取ったのは、生贄を焼いた煙等で、人が食したりしないものばかりです。
もうひとつ、神がご自分のものとされたものがあります。
イスラエル民族の長子の子です。これは後の世代の家長(世継ぎ)の者です。

もちろん、生贄として命を取るわけではありません。次の世代を護る為です。




祭祀は何のためにたてられたのか?

  1. 民衆の執り成しをして、罪の代価となる生贄を捧げるため。
  2. 民衆が罪を取り除かれて、神との交わりを回復するため。


わかりやすい主な目的がこの2点です。
執り成し(とりなし)は少しわかりにくいですか?

長年家出していた息子が、父の家に帰る為に、良き仲介者となってくれる人物のようなものです。
ある人にとっては母が、ある人には祖父や祖母が、また、ある人には父の友人が、そのような人物になるかもしれません。




神と人は、罪という地割れによって交わりができません。神は聖であるので、交わりを持つと人が死んでしまうのです。

ですから、罪の問題を解決せずに交わりを持てる神々というものは、何かしらの霊的現象を伴ったとしても、それは神のようにしている別の何かになります。

イザヤ書に書かれている聖書箇所を引用しますね。



黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

あなたはさきに心のうちに言った、
『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。


しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目をとめて言う、
『この人は地を震わせ、国々を動かし、 世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』

イザヤ14章ー口語訳



これはバビロンの王について言われている事ですが、サタンに(なぞら)えて語られています。

最初の太字箇所は、サタンの罪そのものです。神以上の者になり、支配しようとする事。この高ぶりがサタンの罪の元です。

人は『善悪を知る知識の木の実』を食べたと書かれている事が『罪』なのですが、少しわかりにくいと思うのです。

以前、これは霊の食物であり、もっとわかりやすく言えば、心の食べ物だと例えました。
食べてはいけない物を食べると、心は悪い方に傾く。こんな感じで。

でも、これは、罪の一部を表現しただけであって、本質を表していません。

神は『裁き主』とも呼ばれます。

人が善悪の知識の木の実を食べる事は、サタンの『神のようになろう』とする行為と同義です。


そこで、蛇は女に言った。「 あなたがたは決して死にません

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、 あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる ことを神は知っているのです。

創3:4〜5


アレの囁きは、いつも真実に偽りを混ぜます。

『あなたがたは決して死にません』という嘘から入りました。しかし『あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる』ここは事実です。




『善悪の知識の木』は、2系統の言う 叡智 (えいち)ではありません。
また、『あなたがたの目が開け』この目は、ホルスの目のシンボルに変わって『都市伝説』で語られていますが、決して人が考えているようなものではありません。

これを人は様々な呼び方をします。

霊感、第六感、悟り… 最近では第七感ですか。

神の手で直接造られ、直接霊を入れられた人は、そのようなものは既にあったのです。それは能力ではありません。
人によって違うものだったり、優れ方も違うものですが。
人を癒したり、先の事を知る事が出来たり、という霊的な事は死んでしまいました。人が生きものであるのに必要な神の霊が人の内で死に定められたからです。

しかし、その名残は今もあります。

生まれ持って備わっている才能や得意不得意、こういうものはその一部です。
そして、それに見合った環境下、それを発揮できる人生をおくれると人は幸せに思えたり、満ち足りたような気分になります。

人は本来、そのように与えられたものを用いて、地を治めるように造られたので、本来のその目的に近い人生を送れる事に幸せを感じやすいのです。

『目が開かれる』とは、本来持っていなかった視点で世界を見るようになる事を言っています。
神に属する者だった人は、神に逆らう者の目で物を見る事を知りませんでした。
その目が開かれる事で、互いが裸であると恥た。これが最初の効果です。

そして腰のおおいを作って隠しました。

恥部(ちぶ)という便利な日本語がありますが、恥をおおったんですよね。




男性であっても弱さや甘えがあります。それはそれで良いのです。
それを受け入れ補足してくれる存在として女性がいます。

このように、自分の足りなさや弱い部分補い合える相手こそが相応しい妻であり、一体となれる相手です。

しかし、『善悪の知識の木の実』の効果は直ぐに現れます。
何が善くて何が悪いのかを、人が個々に決め選り分け始めたのです。

アダムは妻エバ(英名:イヴ)を与えられた時、大変喜びました。
『これぞ私の肉の肉、骨の骨』、これは詩で表現されていますが、ひとつとなれる相手として喜んだのです。

木の実を食べた後「どうしてこのような事をしたのか」と神に言われたアダムは答えます。

人は答えた、「 わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです 。

創3:12(口語訳)


ひとつとなれる存在の喜ばしい女が、もう別のものに見えているのです。
だから、自分の弱さも、無垢さも、恥部も、隠すべき相手となったのです。自分自身が思う善いものと悪いものは、自分自身にとってのものなので、相手を信用できないのです。

心も体もひとつになれる伴侶(はんりょ)が、壁や溝のある相手となったのです。

これが、都市伝説界隈や、古代から続く宗教が教えてきた第三の目の初めの効果です。




この状態で神とは交れません。

十戒は人を戒める為ではなく、人を元の状態に戻そうとする為に与えられたのです。

神の祭祀には、それが必要だからです。

posted by Mako at 05:59| 聖書関連