2019年11月02日

神の国の生き方的な話(後)

前回書いた事に、私自身、ある一部の人の意見に反論する内容を書きました。
それで、私の書いた事に反論されるだろうと予測できる内容について、少し追記をしておきたいのです。




【1】心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

【2】悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

【3】柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

【4】義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

【5】あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

【6】心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

【7】平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

【8】義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

マタイ5:3〜12



全て未来に起こるだろう語と結びついています。

【1】心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだから。

【2】悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるから。

【3】柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐから。


今貧しい者、今悲しむ者、今柔和な者が取り上げられて、やがてそうなるだろう事が結論として続きます。

ですから、私が否定した意見について論駁するつもりはありません。それは正しい意見であるからです。
では何故否定するのか?
ここの部分を補足するために、『後編』を持ってきました。




先ず、私はこの聖書箇所を『世の基準』で見ていません。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ3章17


『すでにさばかれている』という事は、命に入る者と滅びに入る者との区別です。
命に入る者は『名が天に書きしるされた(ルカ10:20からの意見)』と言って良いと思いますが…これは判断に任せます。
滅びに入る者とは『世に残される者(ルカ21:33からの意見)』です。

ここで区別された者は、マタ5:3〜12に入りません。この前提に立って述べている事を知って頂きたいと思います。




命に移された者にはマタ5:3〜12があてはまるという区別をしました。

そこで、クリスチャンの共同体を見て頂きたいのです。

クリスチャンの中に飢える兄弟姉妹がいたとして「大変ね。頑張って」だけで終わるでしょうか?
どこぞの国で子供達が餓死していると聞き、『徳のありそうな言葉』だけを届けに行く事があるでしょうか?
誰かが捕らえられた場合、床に付したときに、誰も訪ねない事があるでしょうか?

どこぞの国の飢えている子供1人を訪ねる者があった時、会った事も無い遠い国のクリスチャンから物資を預かる事もありますよね?

中国に命懸けで聖書を運んだ人達はどうですか?
何故身の危険と隣り合わせにそれを行ったのでしょうか?

クリスチャンの共同体(地域教会に始まり、大きなひとつの団体に至るまで)は、御国の雛形だと言われています。
既に御国の生き方をし、マタ5:3〜は、既に始まっているのです。




御国はいつ来ますか?肉体が死んだらでしょうか?いいえ、完全に実現されるのは『新天新地』です。

クリスチャンホームの子供が、親の言う事を聞かなかった為に、転んで怪我をした。
こんな時に「お父さん、ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。」だけで終わるでしょうか?寝る前に「お父さんとお母さんの言う事を聞かなくて怪我をしちゃったよ。」と話す相手がいるのです。
「お父さんとお母さんに心配をかけてごめんなさい。」と、両親以外にも「ごめんなさい」と言う相手がいるのです。

まぁ、両親に反目する子供もいるのですが、このような子供は『既に御国を生きている』のです。




御国を先駆けて経験しているクリスチャンは、後に入って来る人々を治める立場になります。
患難時代を通って入って来る人々がありますから。
家庭を治める事も、社会でクリスチャンらしく事を治める事も、全てその時の雛形です。

そして…
大きな声では言えませんが…
私は全ての事について落ちこぼれでもあります(泣)
だからこそ、主が私のうめきやあがきに、正面から付き合ってくださっていますが…

そんな私ですから、私の述べた事について、間違いがあれば正されるべきだし、意見もされるべきだと思います。

ただ…

その場合はですね、ちょっとわがままを言いますが…
クリスチャンからが良いです。大人でも子供でも。
成長に見合わない知識だけを優先する方の意見は、どうも壁ができてしまって…
先に知識で納得させようとしても、後から覆されるのが普通です。あまり意味が無いというか…
うーん。どう言えば良いのか難しい。

posted by Mako at 23:35| 一人じゃないよ

滑落事故の事

少し分かったかも。

実際の最後の映像なんだけど。

配信者は、キャップを被って、それに小型カメラを取り付け、スマホに繋いで配信していたわけね。
だから、カメラは、彼の額周辺ぐらいの視野になる。カメラの下が眉毛や目になるでしょ?
だから、彼の視野に近い目線なんだ。映像は。

滑り落ち始めてから、キャップが脱げたのか、スマホとのコードが切れたのかわからないけれど…
映像が止まる前に見えるのは、先の無い場所。道も土地も無い場所から7合目あたりまで落ちたって事かな?

凄くびっくりしただろうし、怖かっただろうなぁ。

とりあえず『自業自得!』と言う意見はさぁ。生き残った系事故の人に言って欲しいなぁ…。
酷だよ。
posted by Mako at 20:13| 日記

神の国の生き方的な話(前)

聖書に書かれた言葉で、私が読んで恐怖する箇所があります。

『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
マタイ13章


エジプトの時代もそうですが、どこまでも頑な人が、聖書には出てきます。

一般に知られている事で、クリスチャンが言う言葉に『人は死後裁きにあう』みたいな事が言われているじゃないですか?
それとは別にこう書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ3章17


『既にさばかれている』と言うのは、既に振り分けられている事を意味すると思って良いのだと思う。

御子を信じた者は命に、信じなかった者は滅びに、その時既に移されている。
けれど、命に移された者の祈りと、御父の慈愛によって、命に導かれる者がある。悔い改めのチャンスはある。




クリスチャン自身鈍くなっているので、「救われた事の確信が欲しいのです。」と言う人がいます。
だから私は、霊の飢え渇きを通った人は幸せ者だと思います。
それによって御国を既に味わっているからです。
それはこの聖書箇所の事です。



【1】心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

【2】悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

【3】柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

【4】義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

【5】あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

【6】心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

【7】平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

【8】義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

マタイ5:3〜12



これは「やがてそうなるであろう事」であり、命に移されると、何度も何度も繰り返し経験する事です。

「これは死んで後にクリスチャンが味わう事だ」と言う人がいますが、私はこれを否定します。
【1】〜【8】まで、キリストの御国に完全に入ってしまったら、このような人は居ないからです。


『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と書かれている事は、マタ5:3〜12にもかかっているのです。




別の角度から見てみましょう。

ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

「時が満ち、 神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

マコ1:14〜15


近づいた神の国に触れ、味わう事ができるためには、水と霊とで、新しく生まれなければなりません。
ですから、信じる事によって命に移された者だけが、マタ5:3〜12を味わう事ができるのです。
これが「救われた確信が欲しい」と言わない人々の確信です。




近づいた神の国は、まだ、その一部を味わえるだけです。それだけでも十分に大きな事ですが。
ですから、命令が追加されます。

長いので引用しませんが、ルカ6:24〜がそれです。

例えば『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』です。
これらの命令は、命に移された者、即ち、御国に入るようふるいわけられた者は、天で行われる事を地でもするように命令されているのです。

主の祈りで『御心が天で行われるように、地でも行われますように』と祈ります。
主の祈りは、命に移された民にキリストが教えた祈りです。

【1】御名が崇められるように。
【2】御国が来るように。
【3】ココがそれですね。
【4】糧と必要。
【5】罪の赦し
【6】主に栄光を帰す。

最後にアーメン(truth)の願いで終わります。
主の祈りを直接祈らなくても、無意識にクリスチャンが祈る事が列挙されているのです。
御国の民は御国の民の祈りをしているのです。

その私達になんの確信が必要なのでしょうか?
御国に住まいが用意された人は、御国のそれ(生き方?)を、既に始めているのです。




さて、私は『愛』について躓いています。
昨日アップロードされた高原(兄)の黙示録5を試聴しました。
その中に、私の躓きとリンクするものがありました。
そこで、一通り考えながら眠り、今日書いたこの事が、目覚めた時に私の内にあったのです。
だからメモ風味で書き残しました。

次に、私がしたいと願って止まない事、求めている事についての問題も絡んでくる事が語られていました。
私は、この日本という国にいる間は、それは無理なのではないか?と考えてもいるのですが…

大好きなイエスさまと、よく話し合ってみますわ。
posted by Mako at 17:39| 一人じゃないよ

過去より現代の方が肩書きは怪しいぞ!

君子(くんし)とは有徳(ゆうとく)の称なり。
()(とく) ()れば、(すなわ)ち其の(くらい)有り。
徳の高下(こうげ)を見て、位の崇卑(すうひ)()す。
淑世(しゅくせ)(およ)んで其の徳無くして、其の位に()る者あれば、即ち君子も亦遂(またつい)(もっぱ)在位(ざいい)について(これ) (しょう)する者有り。
今の君子、(なん)虚名(きょめい)(おか)すの(はじ)たるを知る。

佐藤一斎言志四録より


佐藤一斎は、勝海舟の先生(佐久間象山)の先生です。

意味を簡単に言うとこうです。

昔は、君子と言えば、徳のある立派な人の位だった。
後世は徳が無く立派でなくても高い位に就ける。
後世の君子諸君(くんししょくん)、実質や実績が伴わずにその名(位を示す肩書き)を冒して恥ずかしくないか?(又は恥を知れ)


ちょっとしたきっかけで先生と呼ばれ、少しの知識をかじっただけでコンサルタントになったり講演会に呼ばれ、資金を出しただけで経営者や社長と呼ばれ…
こういう人達が、自らその肩書きを名乗る事は『総じて恥知らず』という感じかな?

政治家や議員達が良い例じゃないですか?
アメリカ大統領の訪問時に「How are you?」と言おうとして「Who are you?」と言ってしまった首相がいましたね。
そう、森喜朗大先生ですね(笑)
さすがにこれは誤報のようです。それを知って安心しましたが(笑)

そんな誤報が流れてしまっても信じてしまうほど、肩書きと、その肩書きを背負う人間性が釣り合っていない世の中だという事なのでしょう。

肩書きを自称するほどの中身が無い。これは佐藤一斎の時代も現代も変わらないようです(笑)




YouTubeを見ていると、多くの人が専門家を名乗り、健康も、投資も、学術論文も、たぁ〜くさんの情報が出回っています。
どれが正しいかを判断するのも難しい時代です。

これは、知識と娯楽が混同した為でしょうね。

情報バラエティーのような、誰かに消費させる為に生み出された知識(消費の為の知識や情報)と娯楽(TVや動画を見る事)が融合した結果なのでしょう。
このような世界では、売れる物や流行る物に、価値ある知識や情報が埋もれてしまいます。
ですから、次々に知識が簡素化されて、誰でも扱いやすくなってしまうのです。




では、分相応な徳って何でしょうね?
知識なのか?
品性なのか?
経験なのか?

佐藤一斎は、どういった人物を徳のある人物としていたのでしょう?
うーん…
深いなぁ…

でも、肩書きなんてものは、近年では自ら作る時代になりましたからね。
『レンタル。何もしない人』のように『何もしない』事を肩書きにできちゃう時代ですから(笑)

少し前の時代と違って、肩書きなんてものは、たいした信用にはならない時代である事は間違い無さそうです。
そう、少し前なら肩書きを自称するのは詐欺師だったりしましたからね(笑)

YouTubeのチャンネルだって、モデルや芸人ってつくだけでYouTuberを超えます。
これも肩書きですよね。
時代や用途が変わっても、人はまだまだ肩書きに弱そうです。

ラジオを聞きながらもう少し寝ようかな?と思っています。まだ朝の4時半だものふらふら



posted by Mako at 04:49| 日記