2019年12月15日

世の基準で世の事を語りながら…結局祈りの話

ちょっと、話題とカテゴリーがぐちゃぐちゃなのですが(汗)

前回の投稿で「私は人から愛される事について無能」と書きました。でも、これも確信を持って言いますが、 私は神から愛される事については無能ではありません。
そしてこれを付け足します。
私は神からの憐みを受ける事については有能 です。
この付け足した言葉を卒直に解説すればこうなります。
私は人々の間では弱い者であり、優れているところが無く、 取るに足らない者です。
世においての評価はこうなります。
しかし、キリストの真理に基づいてこれを語ればこうなります。
私は人々の間においても、才能・知識・技術においても、神に直接「あなたのかわりになる人物は存在しない。あなたは素晴らしい。」と言わせるのに良い器です。

私は良い器だと自分で言うのはおこがましい事ですし(恥)、実際にはより良い器として成長しようとしているのだけれど…




自分の事はよく見る事はできなくても、他人の事は見なくて良い事までも見えるってあるじゃないですか。

ある人がね…

遡って言えば、成長期に色々な事があって、早く家を出たかった人がいるのよ。
今は成人していて距離のあるところで暮らしているの。
大人になってみて、問題の実家関係の人と関わった時に「あんまり何もしてあげられなかったね。ごめんね。」と言うのだそうで。

言わないよりはマシですよ。でもね、どんなにひいき目で見ても、何かをしてあげるしてあげないの話では無くて、完全に虐待なのよ。
本人を含む当事者がそう認識していなくても、完璧な虐待なんです(汗)

まぁ、詳しく書く気は無いので先に進みますね。

その人が地元に用事がある時なんかには、そこに立ち寄ったりする事もあるわけですよ。

「今晩どうするの?」と聞かれた時に「え?自分はここに泊まっても良いのか?」と思ったそうです。
許されるのは立ち寄るまで。そう考えていたのね。
そこには片親違いの妹さんか何かもいるようで、邪魔する立場のようなものなのでしょうね。
つまり、そこで生活していた時がそうだったからそう考えていたわけです。

一応「ごめんね」と言う言葉がね、的外れな内容でも出て来るわけです。
言われる方にとっては「今さら…」なんですよ。これをどう言えば良いのか?少し難しいのだけれど「もう散々やった後じゃん」っていう根があると思うの。

それはそれとして。
結果ってとても大切だと思うの。

「色々あったけど、今は幸せだから。」
この結果があるだけで、しでかした方にとっては救いになると思うの。

それに振り回された本人にとっても、その辛かった過去を終わらせるのに必要な事だと思うの。

聖書的な言い方をすれば「古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着る」という作業が必要なのです。

双方に平安が与えられる解決策ってこれしかないと思うの。




クリスチャンがクリスチャンを見ていても、これが大きな節目になっている人は多いと思うのよ。

新しくされる作業。これを通り過ぎた人は、新しい時代を生きている。それを通過していない人は、ずっと古いものに揉まれながら苦しんでる。

あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
コロ3:9〜10


最初に新しくされた時だけでなく、この繰り返しで磨かれているように思います。

だからね、私は過去に留めておこうとする人に苛立ちが出るの。
どうにかするできるなら良いけれど、本人には一切解決策を与えないやり方で足を引っ張られると、苛立ちが凄いです。
それは解決ではなくて一方的な満足です。

何があったのか?
その真実を人に全て話せる事はなかなかありません。
私はネット上に書ける事として、ごく僅かな事だけを、小出しにしてここに書いていますが、そんな事すら、誰も聞こうとはしませんでした。
あるのは一方的な吟味と、一方的に加えられる制裁だけです。

それが終わらない過去として絡みついて、あの辛い日々が私を縛っています。

少し話をまわり道させたいと思います。




とても仲良しだった友人Aがいたとして、なんらかのトラブルで友人関係が終わったとしましょう。

友人関係が終わっているのだから、その時の嫌な思いや受けた傷も、逆にこちら側がつい言ってしまった事ややってしまった事による痛みも、個々で処理する事になります。

双方で歩み寄ったり、理解し合ったりする事が無理な事して決裂するというのはそういう事です。
時間が進む毎に、個々で処理した事というものが増えていきます。
一旦それで良しと解決済みフォルダに格納されたひとつひとつの事は、それもまた、時間が経過するほどに『解決済み』のラベルが貼られた状態で後の時間を生きているのです。ですから、当人や周囲から何を言われても『今さらどうにもできない事』が蓄積しているのです。

個々で進むというのはそういう事なのです。双方で取り組まない限り、終わった関係の結果が過ぎた時間と同じだけ進みます。




時間が経過してからでは、どうにもできない事が増えます。そうすると、つい最近知り合った人物よりも、心裡的距離のある関係が残ります。

だから、その結果皆にとって平安を与える結果が必要なのです。

「今が幸せだからいいよ」と言っても「今は幸せみたいだから良かった」と言うにしても、双方がその幸せに関わる事は無かった事実は残りますが。

あなたが幸せになる事について、私は何もできなかった。手を貸す事も、慰める事も、励ます事も、一緒に努力する事が無かった。
この時間が過ぎた分だけ心裡的距離は広がります。

その人にとって、自分はそういう存在だと自覚して自認しながら、その後の関係を続けるのは、本来の関係が濃いほど難しくなるものです。

それが嫌なら、それが起こっているその最中に、双方が向き合って双方で乗り越える必要があるのです。

それができなかった時間の分だけ、できなかった結果が積み上がっています。
相手にとって、それを乗り越える事が辛かったほどに、その結果の重さがあります。
やっとの思いで色々手放して、新しい日々を新しく生きようとしている事を邪魔しない方が良いです。
乗り越えなければならない障害でしかなくなれば、かえっていない方が良い存在になります。
そうなってからでは遅いのです。




その事について私は無能だ。

これを自認しなければ、何も変わりません。
欠けを感じるなら、埋める努力をしなければならないし、同じ事を生み出す考え方や心の状態を、人一倍努力して見張らなければなりません。
その努力が相手に伝わらなければ、もう2度と信頼される事はありません。
そして、人一倍努力しても、その期間が長かった分だけ、内容が相手の傷になっている分だけ回復は難しいのです。




だから私は、今よりもより良い状態になる事を勧めています。
それが結局、皆の平安になり、慰めになるからです。

まぁ、世で起こる事について、世の基準で見た私の意見ですが。
相手がクリスチャンであれば、もう少し角度を変えて話すのかもしれないですけど。

神を父と呼ぶ関係については、私はなかなかの親不孝者なんですよ。
自慢できる事じゃないですけど。
だから、それを通った者としての考え、経験に基づいた者らしい事ばかりしか言えませんけど。

私は昨日、こう祈りました。

私は感謝しています。私の罪深さよりも、あなたの救いが大きなものであることを。 私は感謝しています。私の愚かな行いを覆うほどのあなたの知恵の偉大さを。
私は感謝しています。私の偽りごとを打ち破るあなたの真実を。
私は感謝しています。愛と恵を受ける資格の無い私に、価値を見出してくださる偉大なる父、神に。
私は感謝しています。このような私に仕える者のようにして働いてくださるあなたに。
ハレルヤ。御名を讃えます。
小さな者を祝福してくださる神である主を、私も祝福をかえします。
あなたの御栄えが、世々限りなくありますように。
イエスキリストの御名により、マラナータ。アーメン。


「こんな日々が続く中で」
「同じ事が続くだけの毎日で」
様々な理由で祈る言葉が見つからない時って、改まってデボーションの時間を作ってみるとね。あるじゃないですか(笑)
「さっきもこれは祈ったしなー」なんて事も(笑)
そういう時は、礼拝の言葉や賛美の言葉を用いる事にしています。
それはそれで必要だから、良い機会です。

今日「何を祈れば良いのか?」と考えてる人は、パクっていいっすよ(笑)

感謝が足りないと思えば感謝を。
信頼が足りないと思えば信頼を。
愛が足りないと思えば愛を。
神との関係で、自分に足りないと思う事をまとめて祈りに使います。

そうしていると、いつのまにか何かしら言うべき事が出てきます。
posted by Mako at 05:16| 一人じゃないよ