2020年02月03日

アブラムからアブラハム。私もそっちに行きたい

スイッチの切り替えができない。
2日続けてレシピを更新したけど、あんまり納得が行ってない。
色々とスイッチの切り替えができてないから。

オンなのかオフなのかもよくわからない。

クリスチャンは皆知ってる。
人は人を失望させる。でも、イエス・キリストがもたらすのは希望です。
彼に信頼する者は決して、失望に終わる事がない。

アブラハムは言った。
「あなたが私を富ませたと言われない為に」
理由は単純で、アブラハムを富ませたなのは神だから。
アブラハムと神の間で交わされた『アブラハム契約』は今も生きていて、全てがつながってる。

私もアブラハムに習って言うのよ。
「あなた方が私を富ませたと言われない為に」
「あなた方が私を満足させたと言われない為に」
「あなた方が私を打ち負かしたと言われない為に」

『愛』は一方通行では成立しない。双方の応答が必要です。
『愛』と『信頼』は必ずセットで、切り離す事ができません。

私が「私の主は、私を失望させたままにしておかない』と信頼する事は『愛すること』でもある。
神が私を愛するなら、神もこう考える。「私の娘である彼女は、決して闇ばかりを見ない。必ず光に目を向ける」と。私が何度失敗しても、挫折しても、神の方が、私よりも私を信じて期待してくれてる。

私を富ませるのは神であり、私を満ちたらせるものは神です。
※富ませる事は金銭や物欲の話じゃない。そんなものに本当の満足はない。

『愛』を信じられない人に『神』はわからない。逆も然り。
『愛』は目に見えない。それがあると信じたいから、人は相手に理不尽な事まで要求する事がある。『愛』は『信じる事』以外に存在を認識できない。『信頼』を裏切られるから人は怒る。けれど、傷ついているのは『愛』の方だ。

『愛』は双方の『愛』が重なって、ようやくひとつになる。だから、私はまた立つし、キリストの十字架を見上げて希望を持つ。
失望させるのは『愛』の無い他人と、愚かな自分自身。他人を排除するのも難しいし、自分の愚かさを止めるのも難しい。
でも、1人で立たせはしない。これがイエスと呼ばれた私の主の性格。
希望を持ってやってきては、私の手を取って一緒に歩き出す。
打ちひしがれた時も一緒にいる。インマヌエル、その名は彼そのものです。

金銭や物欲を愛するのは、自分自身すら信用していないから。
何かあったときどうする?
明日病気になるかも?

自分だけではどうにもならない事がある事を認めている。
自分の判断で。自分の基準で。自分の為に。自分の思う事を。
善悪を知る知識の木の実の効果は、未だに人類に影響を及ぼしてる。
神のように善悪を選り分けるようになった。でも、全体を知る事は無いし、知識も見識も技術も低いので、自分の見える範囲でしか判断できない。
それを解決するのに便利なのが、富や名声、知名度等だ。
そしてサタンは、天地万物の造り主である神を認めない生き方をする者、特にそれを広める事に熱心な者には、富や名声、知名度を冠として与える。

「他人の事はどうだっていい」と稼げる奴ほど強い社会。弱肉強食なんて呼んでいるけれど、人と人が『愛』を持ち寄って成り立つエデンの園とは逆の真理です。
神は、金銭や物欲に限らず『あなたに足りないものは無い』という世界で人を養い対抗する。クリスチャンはそれを、労せず受けて養われている。羊飼いについて行く羊が、自由気ままに飲み食いし、安らいで眠るように。
その中でも、羊飼いの為に労したいと願う者がいる。
彼等は、労したと思っていた分だけ思い上がりだった事を知る日が来る。労したいと考えた事すら、恵みに過ぎないからだ。けれども、その労した事の小さなひとつさえ報いから漏れる事は無い。

私は彼等が羨ましい。
私は、まだカルバリを歩くのに精一杯で、あの丘の上に到着しても、あの木の下で…
この世の終わりのようにすがって泣くばかりだから。

でもきっと立つしまた歩くよ。
ただちょっと…
もう歩けないとおんぶやだっこをせがむ子供のようにしていたいだけ。
何を言うのか?何を教えるのか?何を諭すのか?
何を指し示すのかを、ゆっくりわからせて欲しいだけ。

大丈夫さ。信頼は揺るがない。
posted by Mako at 01:45| 一人じゃないよ