2020年07月02日

長い目で見つめてきたけどもう無理かも?

共産党池内さおり前衆議院議員の「しんどう かな」ポスターに対するツイートに反論しますを視聴しました。

『多様性』も『自由』も、もちろん『権力』も『司法』もですが、公共の福祉による制限を受けます。

3:24あたりからですが、海岸に行けばこのような格好の女性がいると言い始めます。
これはアベノマスクであるとあるという解説につなげるのですが…。

まずですね、ポスターが貼られるのは海岸では無く街中です。公道に面した公共性のある場所に面した場所です。そして、海岸に行っても、下着でも水着でもマスクを胸に当て、手ブラのようにしている女性はいません。
次にアベノマスクへの揶揄ですが、それは抗議運動や活動でやるべきです。知事選挙や議員選挙でやるべきではありません。

抗議したいのであれば抗議をすれば良いのです。そのような政治運動もこの国では認められています。舞台が違いますよね。議員選挙も知事選挙も抗議活動の場ではありません。どのような政治をするか?主権者の信頼を得られるか?期待に応えられるか?これで戦う場です。

次に児童の問題ですが…。

「違法でなければ何をしてもいいんだ!」という権利と、それをやられては困るとか迷惑だと訴える権利が衝突した場合の解決策として、利益と被害の比較衡量や公共の福祉による判断となります。
地域児童に悪影響であると地域住民が迷惑していても、このようなケースでは撤去や隠す事ができないんですよ。選挙ポスターですから。
日本には風営法がありますが、自動が利用する施設、学校や保育園等ですね。これらがある場所から距離がどのぐらい離れていなければならないというような問題があるのです。地方公共団体の裁量で別途定めをしている地域もあります。そこへ、風俗を思わせるようなポスターを堂々と貼られては、そのようにして公序良俗を守っている意味がありません。

次に、このようなポスターを避けるために児童の通学路や遊び場を移す事は問題です。通学路や学区を外れた為に、誘拐や痴漢のような事件に巻き込まれても『いつもと違う道』というだけで目撃者の数が変わります。通学時間内に通学路で、同級生や同じ学校に通う生徒が目撃しているのと、見た事の無い子供がたまたま通ったのでは全く違うじゃないですか。

批判が起こるだけなら迷惑にはなりませんが、実際選挙ポスターを避けさせたい保護者や児童がいる以上迷惑がかかっています。そして、どちらが移動するべきか?は当然公人側ですよ。

選挙期間だけの事と笑って見られません。

注目を集めさえすればそれで良い。名前が売れればそれで良い。

今回の立花さんの政見放送は政見放送 東京都知事選挙 後藤輝樹 ごとうてるきさんの政見放送に劣ると言われています。

彼もそうなんですよね。注目を集めて若者の関心を政治に集めたい。選挙に行かせたいという思いからの行動だそうです。

私はこれが政治に関心を集めるとは思いません。まじめな場でわるふざけしてやったぜ!的な注目は集めるでしょうが。彼の政見放送を見た層が、例えば小池さんの政見放送を見るとは思えません。

なんかあれですよね〜。小池一人勝ちの役に立ってるだけの候補ばかりのような。
自民勢はオリンピックが終わるまでは都知事に自民関係者を置いておきたいでしょうしね〜。

立花さんねぇ。多少下品でも、かなりゆるぅ〜い目で見てきたんですが…
私…もう彼が無理かもしれないです。

政治を離れてくれればまた別の目で見られるかもしれませんが。
posted by Mako at 20:36| 日記

性について3-再び聖書的考え方へ

『聖書的見方・考え方』についてから書き始めたのですが、聖書は『この世界は(地球だけで無く宇宙も)創造主である神によって造られた』という事から始まるのが聖書です。
世界が神によって造られたのであれば、造られた理由が存在します。その目的と理由によって動くように出来ているというのがそもそも論です。

聖書が禁欲主義では無く、正しい相手と正しい愛を持って性行為をし、それによって相手を良く知る事。その結果もたらされる2人が結び合わされてひとつになる事と言うのは、神からの祝福を受けるひとつの正しい生き方でもあります。

聖書の冒頭には、男と女が愛し合いひとつになる事によって、神が世界を祝福する様子が書かれる創世記から始まります。

その秩序が乱れれば、世界が乱れます。
愛の無い家庭で育った子が、愛を知らないままで家庭を築く。
これが繰り返される事で、対人関係も、動植物との関係もおかしくなっていきます。
聖書はいつも人に呼びかけます。「初めの愛に帰っておいで。」と人に語りかける創造主からのメッセージという地位なのです。
この世界を造った者は、その法則も流れも、人がどうすれば祝福されて生きられるのかを知っている。

前記事で精神論で思う事の一部を書きました。同じ障がい者でも、初めの愛に帰った人と、成長期に叩き込まれた『自分で生きる事』に縛られたままで生きる人とは、人との接し方が全く違います。

あの地震の前、病院に入院していたときに、久しぶりに全盲の女性とかかわる機会がありました。
「あなた(盲人と接する事に)慣れてるでしょ!」と言われました。
私は彼女を見て直ぐにわかったんですよ。自分で生きていかなければならない頑なさを持っている事に。

「私といるときはそんな緊張感いらないよ」という時間をつくってあげたかったの。あげたかったと言うと少し上から目線だよね。でも、私は、彼女がそれを望まなくてもそんな空間を作りたいと思ったの。

私と相性の悪い看護士がいて、彼女を見張り役にしてねw 病室でしてはいけないような事をしたり(苦笑)
例えば無駄毛処理とか(笑)
その看護士に見つかると大騒ぎされちゃうからね。
「あいつ(看護士)が来るから寝たふりするわー。」ってベッドに潜り込んだときも、私を起こさないようにあれこれ言ってたなぁ。
その嘘が下手だったので、私はベッドの中で笑いを堪えてた。看護士が居なくなった後で「下手くそ!もっと良い言い方無かったのかー?」と大笑いしながらベッドから出ると「私は嘘になれてないんだぁ!」と一瞬怒って言い返したけど、すぐに一緒に大笑いしてた。

その時私は思ったのよ。医者にも看護士にも「はい」「いいえ」「ありがとう」と、自分に必要な事だけを言葉にするばかりの彼女が笑うようになった。
私が仲良く話す他の患者とも介護士さんとも良く話すようになったけれど…
100%じゃない。彼女の壁は厚い。
キリストの介入無しに人の心を溶かすのは、本当に難しい。
もうひとつ思った。私の壁も頑丈で厚い。

夫婦が愛し合い愛を深めると、子を授かる。夫婦だけでは無く神の介入が必要。
夫婦で無くても、例えレイプであっても、その行為によって子を授かるのは、性暴力や誤った関係でそれをする事を想定していないから。
『神は愛です』というのは聖書の一文です。
神から祝された人生を送るには、神の前に正しい愛を置かなければなりません。

神は愛そのものであるけれど、神は命でもあります。命は神からのものです。
中絶に反対するクリスチャン団体がいるのはその為です。
男がいて女がいて、神がある。そこからひとつの家庭が始まる。
父がいて母がいて子がある。そこからひとつの家庭が始まる。子の無い夫婦だって、誰かの息子で誰かの娘だったでしょ?

御父(みちち)、御子(みこ)、御霊(みたま)が揃ってひとつの神である。



神は仰せられた。
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。
神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。
神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

posted by Mako at 09:55| 日記