エノク書を考え方や言いたい事、物の見方に取り入れるのはどうかなぁ?という疑問を持ちつつも…
なので都市伝説にカテゴリーして書きます。
アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
レビ記 16:6〜10
レビ記は創造神への祭祀を行うレビ達の事について、細かく書かれている聖書箇所です。
人は創造神への背きの罪の為に死ぬ者となった。その贖い(罪の償いのようなもの)の為にヤギや羊を贖罪の生贄として捧げる事。それはその事のひとつです。
主の為の生贄は今書いた通りの贖罪の生贄です。しかし、アザゼルの為のやぎが出てきます。
アザゼルとは?
大天使長アザゼル。アザゼルがノアの大洪水の原因となった堕天使であると言われています。その理由は以下の記述があるからです。
神の子たちが娘の魅力に惹かれ、選んだものを自分の妻とした。
大天使長なので、他の天使を従えています。その具体的な数は200と伝承されています。神の子たち。これが彼等だという解釈になります。根拠となるソースはエノク書です。
天使は基本的に霊的な存在となります。私達人間のように物理的に存在する者とは違います。そして、神から与えられた、銘々その役割にあった叡智や技術を持っています。人から見れば、まさに神の業(わざ)や知識と思われるものを個々に所有しています。
人の娘を妻とした
これは、神憑りのようなものを想像するとわかりやすいかもしれません。日本文化に照らし合わせれば巫女です。
神はご自身の形にかたどって人を創造された。
これは聖書の人の創造に出てくる言葉です。人の霊は神からのもの。それも、神に似せたものとして造られたと書かれています。これが純粋な人の形です。
アザゼルは、ここに別の霊性を混ぜたのです。これを書いているのがエノク書です。アザゼルは人を現在の社会構造(ピラミッド的な)の生みの親と言えます。
アザゼルの贖罪
地上には洪水が起こり、ノアの血統以外の人は死に絶えました。神の裁きです。では、アザゼルに従ったグレゴリー(見張りの者)200の天使達。彼等にはどのような罰が下されたのでしょうか?
まだ実刑にはなっていない。これが正解となります。現在は囚われの身です。
大天使ラファエル。これは主にユダヤ教でしか出てこない名前になりますが、ラファエルがアザゼルを捕らえて荒野の穴に投げ込むという任を行います。エノク書によるとですよ?聖書によるとではありません。
アザゼルに降った神の裁きはこうです。
アザゼルの手足を縛り、荒野に掘った大穴に投げ込まれる。その穴に石で蓋をし永久に光を見ないようにする。
審判の日(実刑に移る日)までそこに置き、世にはびこった彼からもたらされた罪を彼に帰すようにする。
現在は自身の捲いた種(罪)を刈り入れる(責任を負う)期間であるという事です。
アザゼルから来た罪はアザゼルに帰さなければならない。それが終わるまでアザゼルは死ぬ事ができない。拘束されたまま、闇の中で生き続けなければならない。←今ココ
審判の日が来ると、アザゼルは火の中に投げ込まれます。
アザゼルの罪
アザゼルがもたらした罪とは、人の霊性を乱した事。そして、人が持つべきでない価値観や智慧を与えた事です。鬼神を生み出した事もこの事のひとつに数えられます。
アザゼルは、魔術の分野では風を司るとも、四元素を司るとも言われます。
ここからわかる事は、元はオカルトからなる科学もそれに属するものと言う事ができます。疫学のようなものもそれに入るでしょう。薬学なんかも入ります。細かい事をあげればまとめるのが難しくなるので端折りますが。
つまり、あらゆる宗教、技術、思想、学問がこれから出ているという事です。エノク書を正しいと解釈するならばですが。
現在言われている能力者とされるもの。霊媒、占い、呪詛、このような類はここから派生していると言って良いという事になります。
有名なアザゼルの罪では、他に魅力を与えたという事があげられます。
化粧や装飾品、媚びる行為、誘惑する行為、これらを人、特に女に与えた。これによって男は女を守って治める立場から、女の機嫌を取り貢ぐ者になっている。
『犯罪の裏に女あり』は、この性質を良く表していると思います。
男には、戦う為の技術を教えました。つまり武器をつくる事です。敵よりもより良い武器をつくる。これは現在でも行われています。そして、自分達が考える正義によって敵を倒す。これも神の価値観が完全に排除されている殺戮行為ですから、正義の戦いと人が呼んでいるものに、神の意志が無いと言って良いかもしれません。介入はあれどです。
人知を超えたもの、超常現象、神秘的なもの、これらを地上にもたらした者で、そこから派生したものが学問として蔓延している。そういう世界観でこの世を見る。それが今私が書いている事です。
ネフィリムと能力者
人の娘と霊的交わりを持った後生まれた子。それがネフィリムという解釈が広まっていますが、私自身、概ね賛同するものの…といったところです。
ネフィリムを私なりにわかりやすく言うとですね…。
偉大な霊力や神通力を持つ者がいる。これがネフィリムです。人が持たない力や智慧を持った人間の形をした者です。
霊媒師や霊能力を持つ者の子孫にも同じ現象が現れる。これは、ネフィリムのように、純粋な人の霊性に別のものが混在している事が続いているからという事になります。
よく、ミュージシャンが悪魔と契約するなんて話が噂されるじゃないですか。27歳で死ぬとかそういうやつです。あれはその代で終わりますが、その契約が子孫の代まで続く。それが上記した内容になります。
本来人の中にあるべきではない霊性を持っている者。これがネフィリムの性質を受け継いだ人。そう言う事ができます。
神とアザゼルの違い
聖書は一貫して、人を生きさせようとします。これが神の意志だからです。
一方アザゼルは人を死へ誘います。
例えば、死者への崇拝や、人は死んで神になる信仰のような類のもの。これはアザゼルから来ています。神に反逆した者らしく逆へ行くのです。
聖書に『死人は死人に葬らせなさい』といった言葉があります。生きる者に死者は関係ない存在なのです。
死人に対する礼拝は、良い事のように見えて、自分をそこに貶める行為です。しかし、良いものに見える。良い行いをしているように思える。これがアザゼルらしい誘い方だなぁと私個人は考えます。
アザゼルがもたらした知識や技術、このようなもの全ては『神が忌み嫌うもの』として聖書に書かれています。
偶像礼拝の禁止は、神が神以外のものを拝んで怒るからではなく、人を死に誘うからというのが根本的原因だと言えます。
神からの霊とアザゼルからの霊
神からの霊は、神と共に生きた人々が義人と呼ばれてきたように、神と共に生きる者の中にあります。イエスはその完全な形です。
アザゼルからの霊は、主に、アザゼルに従って堕ちたグレゴリー達がその代表例と言えるでしょう。彼等は人の中に入りたがります。そのようにして堕ちた者だからです。
このような者を、人々は悪霊と呼びます。
あれはその行いの通りに、神仏として崇拝される事や、貢物を好み、人の中に入りたがります。
「事故現場に事故で死んだ者の霊が出る。」これは彼等が人の人知に合わせて意図的に行っている事です。一方守護者のように見せる事もします。『光の天使に見せる事もする』と聖書に書かれている通りです。
悪霊は人が中に入れる
通常、悪霊は人に入る事を好みますが、多くの場合人がそのきっかけを作っていると言えます。人がそれを求めているのです。
能力者になりたがったり、心霊や超常現象を求めて歩いたり…。そのような行為が受け皿を作ります。
スピ系からChristianになった人の多くは、瞑想や禅は、悪霊の通り道を作ると言います。ですからそれもそうなのかもしれません。私には経験も知識も無いのでわかりませんが。
人が求めて触れようとするから入る。その前は、神の恩寵の中にある限り、むやみやたらと出入りしないようになっています。
オカルトにかかわる事だけを言っているのではありません。人の心の闇の部分です。誰かを憎んで憎んで憎み切る思い。ここにつけいってきます。このような事もアザゼルの道へ人を引きずり込みます。
しかし、人を恨んではいけないとかね。そうやって自分を律しても意味がありません。自分自身で聖くはなれない。それが人ですから。どんなに徳を積んでも無意味です。どんなに道徳的に生きても無意味です。それは自分自身や人の目から見て善いか悪いかに分けられるにすぎません。
霊的な事は人の目には見えません。ですから、知らず知らずそれを受け入れていてもわかりません。その善し悪しでさえ、アザゼルから来たものかもしれないのです。
時代が進めば進むほど、アザゼルの裁きのときが近づいています。
悪霊達はもっと盛んになります。荒野。つまり水の無い所に閉じ込められているものが表に出ようとしています。
アザゼルがもたらした成功・智慧・地位・栄誉。この世の価値あるものとされている事の全てに逆らって生きているのがクリスチャンです。彼等は、最後の審判の日、神の軍勢につき共に戦います。世に生きている間、彼等に従わなかったし拒絶したからです。本物のクリスチャンだけが…と終わりのときに向けて言われるのは、この事も関係しているかもしれません。
霊性はひとつであり、複数持つ者はそれに入れないのです。
アイドルの別名は偶像です。人を騙し、誘惑し、夢中にさせるものです。
だから、アイドルになりたいと考える人の気持ちは私には理解できません。人の想いや欲をくすぐり、それを自分の装飾として輝かせ、金品に満たされたからと言って、やっぱり中身は汚いのです。
見た目では無く、稼ぎでは無く、内を見る。これは神からのものです。聖霊がもたらす霊を見分ける力。これはその究極なのかもしれませんね。多くのクリスチャンは意識せずにこれを用いている人が多いと思います。本人によらないので、意識せずいつの間にか・・というのが人にはちょうど良いのかもしれない?のかなぁ?
善い事をすれば善い事が返ってくる。これもアザゼルのものです。神は悪者にも憐れみ深いからです。行いによらず善いものを与えたがるのが神です。
現代の状況を見ていると、アザゼルの時が近づいている事がわかります。動画投稿だけでもそれが進んでいるのがわかる。政治を見ても。治世を見ても。クリスチャン自身もそれをよく見なければならない時代ですね。
陰謀であろうが、人をキメラ化(他の技術との融合)しようとする事や、いわゆるホムンクルス(デザイナーベイビーのような反自然的に生まれる子)のような事であろうが、それと戦えとは言われていません。ただ福音を告げ知らせよと言われているだけです。ですから、どれにも加担せず、過ぎるべき時を見守る事も求められている事かもしれません。
誰が統治者になろうが、支配者になろうが、誰がサタニストだろうが、クリスチャンが迫害されて殺されようが、起こるべき事を止めてはいけません。そう自分に言い聞かせながら最近を生きています。