2020年10月01日

告白

小池百合子さんの暴露本?
とにかく彼女について書かれた本の書評を知りたくて検索したときに出てきたサイト。

こちら

つい嫌いを押してしまったのですが…たらーっ(汗)

そこにね、いたんです。Mr都市伝説。

昨日、今日と二日連続で嫌いを押しに行ってます。

IMG_8023.JPG

なんだか性格悪いので、明日あと1日嫌いを押したらやめます。
それで3回目だから。

え?3回の理由?なんとなくたくさん押した気になれるので…。

嫌なやつですね。ハイ。すみません。ごめんなさい。
私嫌なやつです。明日卒業します。

posted by Mako at 07:22| 日記

いわゆる神秘を否定するのは愚かだが神秘主義はもっと愚かである

タルムードを排除した、最も純粋なユダヤ教に近く、原始キリスト教の状態を残していると言われるエチオピア正教会。

どうせ言葉はわからないので、音楽を持ってきました。



都市伝説好きの人が頻繁に口にする単語『失われたアーク』。それがエチオピアに隠されているという噂もあります。

都市伝説好きの方は『キリスト教』と言えばすぐに『バチカン』となってしまうのですが、エチオピアはもっと古くからキリスト教を国教にしています。

ユダヤ教もキリスト教も、文字が読める事はとても大切です。エチオピアはアフリカ地方でも珍しく昔から文字を持つ。その背景にBibleがあった事は大きいと思います。




同じく都市伝説好きの方が間違って(๑⁼̴̀д⁼̴́๑)ドヤッしてるのが『カバラ』です。

歴史的順序も、系統も、都合良く書き換えられています。

私は思うのです。一次資料、二次資料と多くの証拠があったとしても、人は自分の耳に優しい事を受け入れてしまう。

これは陰謀論にしても言える事だと思います。




都市伝説で有名なナオキマンさん。彼が『666が悪魔の数字になったわけ』という事で、都市伝説的には面白く、事実としてはかなり嘘な内容を語っているのを聞いた事があります。

特に何が間違いかなんて取り上げる事はしません。
でもひとつだけ。



ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

ヨハネの黙示録 13:18



問題の聖書箇所です。
もう1度引用します。



その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。



そもそも666は悪魔を指していません(笑)




カバラは基本的に神秘主義です。元はもっと理論っぽかったと思います。

反キリスト的結社や派閥も神秘主義です。

クリスチャンの中にも神秘体験を伴う事があります。しかし、神秘主義ではありません。どちらかといえば超自然です。

これを経験するにしてもしないにしても、信仰の強さになんの関係もありません。

それは、世間で言われている霊能力や超能力のようなものでは無いからです。

理性的でありたい。そう思う人にそのような形で何かが起こるわけではありません。
逆に霊的でありたいと願っていたからと言って同じ事です。

コリントを思い出してみてください。



しかし、主は、 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」 と言われたのです。

Uコリント 12:9


キリスト者同士の交わり、その燭台の間を歩かれるキリスト、聖霊の働き…

その中に既に現されています。十分なのです。

交流の中で、交わりの中で、分かち合いの中で、十分な分を受け取っている。これは既に超自然的経験です。

世人の見ないものを見ている。これは既に主からの神秘を味わっています。
主を待ち望み主を探す事を怠っては気がつかないうちに過ぎ去ってしまいます。

もうひとつ聖書を引用しましょう。




八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネ 20:26〜29



「平安が…」よりも「安かれ」と訳される古い聖書が好きだったりします。
(o^^o)エヘヘ



「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」



弟子達がいる中で、ただトマスだけがこのように言われました。

それはトマスがこう言ったからですね。



それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、 トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

ヨハネ 20:25



他の弟子達がいる中で、トマスだけが主に語り掛けられた事。これは他の弟子達は経験していません。

彼等はそれを分かち合っただけです。

トマスだけが経験した事ですが、これはトマスの不信仰(他の弟子達への嫉妬かも?)から出た事です。

信仰的なのはどちらでしょうか?
幸いなのは誰でしょうか?

そこまでしなくても分かる聞き分けの良い子と、そうでない子もまた扱いが違います。

使命や役割で分けられる事もありますが。

「もうダメだ」と思ったとき、主の介入によってどうにか生き延びたのはダビデです。
ダビデが味わった事を私達は経験していないのでしょうか?
決してそんな事は無いじゃないですか。

自分の力では起こり得ない事は、人生の中で何度も味わってきたではありませんか。

それもまた神秘的経験なのです。

しかし、注意しなければならない事があります。

いわゆる神秘を否定するのは愚かですが、神秘主義的に生きるのはもっと愚かです。どちらも主を知らない生き方だからです。

主は秩序と区分けをハッキリします。混乱や無秩序の神ではありません。
神秘主義は混乱と無秩序をもたらします。
私達はただ、受けるものを受け、求めるべきものを求めるだけの存在です。
万策尽きたときにこそ主の力は存分に発揮されます。

海の前に追い詰められたモーセとイスラエルの一行と同じです。
誰も手立てが無かったのです。



「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」

Uコリント


万策尽きた状況。きっと世人が見ればただの不幸人です(苦笑)
そこまで行った経験が少ないほど、自分が主を探す事を気をつけなければ見つからない・わからない事が多いと思います。

つまり、主を知ること。そして主の御手の働きを見出す事こそが神秘なのです。
そこから全てが動き出す事を見て経験する事を「私はそのような経験がありません」と言ってはならない。

私はそう考えています。




多くの兄弟姉妹達へ。

私は私の人生の時間の中で主を味わいました。
しかし、私がまだ味わっていない主の真実と、人が見た事も聞いた事も無い、考えつきもしない完全なわざを日々味わっているあなた方を羨ましく思います。

直ぐに来ます。私達全員が同じ経験を同時にする主の日が。

そのときは同じ経験を分かち合いましょう。

マラナータ。主よ、来てください。

posted by Mako at 06:17| 一人じゃないよ