2020年10月28日

つながるもの〜回り道して余談〜

※【つながるもの】の余談てきな話です。




「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分の為に、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」


 モーセの十戒からの引用です。ローマカトリックは、美術品として価値のあるあらゆる絵画、彫りものや彫刻、装飾品で満ちています。「イエスは痩せこけた白人」のイメージを作るのに一役買う原因にもなりました。彼らの司教は、祭壇の近くに置かれた像に一例したり、間接的なキスをしたりしてそこを通り過ぎたりしますよね。
 これを厳密に言えば、聖書に逆らっているという事ができますが、私はこれを深く糾弾したり批判するつもりはありません。神のために自分のできる手仕事の完成を公共財歳として残す事は悪では無いからです。しかし、飢餓のために、または、キリストの福音を伝えるために役に立つのであれば、それは手放して良い物と考えます。
『カトリックとプロテスタントの違い』というテーマで、中田敦彦さんがユーチューブチャンネルで解説をしていました。わりと無難な線を行ったなぁという感想の内容でした。そして、これらの彫像品がある事も「カトリックが成功した理由」というように語っていました。例えば観光客が集まるとかね(笑)

教会やそれに準じた建造物は祈りの家であり、共同体が集会をしたり、助け合ったり、礼拝をしたり、祈り合ったりする場所です。観光地である必要はありません。成功をおさめる理由もありません。高い料金を支払って見学旅行に来る人の相手をするならば、学校にも通えない人や、孤独に苦しんでいる人を訪ね歩く方が大切な事です。教会はビジネスではありません。

これは、世の基準との違いと言う事ができます。

私はカトリック信徒を否定しません。私なんかよりも立派と言って良いのかわかりませんが、よく勉強し、よく耐え、よく密接に信仰者として生きている人がいるからです。禁欲生活をしている修道士達の事を言っているのではありませんよ。一般の信徒さんを中心に言っているのです。

聖書を個人個人が持つ事ができなかった時代。現在は持つ事ができますが、時間をさかのぼればそうではなかった時代があります。そして魔術師シモンとして知られるその人が、キリスト教を装って、原始キリスト教時代から信徒を集めていたカルトという問題があります。キリストの弟子シモンを装って信徒を集めた事や、その教義がキリストの福音とは全く無関係であった事。その影響がローマカトリックに色濃く出ている事や現在もそれが残っている事。

いわゆる、キリスト教の黒歴史とされている部分に深く影響している事を最近考えるのです。

この魔術師シモンの教義では、「この天地を造ったのは神ではなく天使である」というところからスタートします。魔術師ですからね。ってここはオカルトの話になってしまうので、教義の流れに専念しましょう。聖書を重んじる派のキリスト教会では、天使を飾るような事はしません。しかし、ローマカトリックは違います。赤ん坊の姿から青年の姿まで多くの天使像があります。月、星、太陽といった自然の装飾物や、水に関するもの、火に関するもの、つまり、モーセの時代から言われている事は何も守られていない事になります。

ここで一度確認しておきたいのですが、正しいキリスト教(この言い方自体が好きではありませんが)とは、そもそもユダヤ教の一派であるという事です。ユダヤ教を捨てたものではありません。迫害され、殺され、投獄され、このような事は実際に起きましたが、あくまでもユダヤ教の一派なのです。

魔術師シモンはサマリヤを中心地として活動を始め、フェニキア、ローマへと広がっていきます。新約聖書の記述に残っていて、オカルトファンから批判される焚書の問題も、本物を装った魔術師シモンと本物の使徒の問題から起こります。使徒の時代ですから、キリストの磔刑から間もない頃ですね。この頃、キリストを信じるユダヤ人達の共同体であった原始キリスト教。あくまれもユダヤ教の一派ですから、ペテロの働きによって増えた異邦人(外国人)との摩擦がありました。聖書の記述の通りです。
これによってあぶれた異邦人信徒や、洗礼者ヨハネを失って迷っていたヨハネの弟子達を取り込みながら大きくなっていたと言われています。ですから、この道筋で信徒を増やしていったのだろうと考えれば理にかなっていると思います。また、パウロがアジアを後にしてヨーロッパから先に伝道するべきと舵を切る事になった事も、時代が一致するためわかるように思うのです。あくまでも私見ですが。

悪名高き魔女裁判ですが…。魔術師シモンとその継承者がキリスト教として大きくなっていく中で、宗教改革によって、多くの人が自国の文字と言語で聖書が読めるようになっていく過程とぶつかるのですよ。

ここは私の独断の目線ですが、実は魔術的内容であった事や異端的であった事をはぐらかす為に民衆に向けてしまった事と、時代背景+信じていたものへの不振等が集団的思考と一致して起こったと考えています。聖書はそれに使われただけだと判断しています。

魔術師シモンは、各宗教の良いところを少しずつ取り入れているような教義をつくっていると思われる部分があります。文献や資料が多いわけでは無く、教会史の一部に埋もれている部分もあると思うので「私はこう考えています」と私見を述べるに過ぎない話なのがもどかしいですけどね。




近頃「キリスト教とは?」という定義が、今書いた問題点をふんだんに盛り込んだものでしか認知されなくなっています。都市伝説として吹聴する事もまさにそれです。魔術師シモンがしかけた「キリスト教を装ったもの」がキリスト教として語られているのです。マグダラのマリアや、キリストの子孫、この世は不完全であるといった内容ですね。そして、古い宗教からあれこれピックアップして盛り込まれているので、どの国の人でも受け入れやすい内容になっているという問題も指摘したいと思います。

「キリスト教総本山 バチカン!」なんてTVで堂々と言われちゃう感じですよ。総本山ってなんですか?キリスト教にそんなもの存在しますか?それならばユダヤのあの神殿に思いを馳せるべきという事になりますが、なぜかパチカンなんですよ。

つまりあれですかね?ローマカトリックだけがキリスト教と言われているのでしょうか?もしそうだとしたら、それはそれで光栄だと私は思います。なぜなら、キリストの信仰、聖書や創造主への信仰は宗教では無いからです。宗教は民をコントロールする道具のひとつです。クリスチャンは世に生きる以上、権力をないがしろにしてはならない事を教えられていますが、基本的には自由人であり、異邦人です。ですから宗教組織に縛られてはいけません。

問題は、古い時代から混ぜられた間違いを前面に出された状態で「これがキリスト教である」と認知される事です。これがやがて大波にならなければ良いのですが。

全然関係ない話ですが、先日私は「北海道が水浸しになったら…」なんて事を考えていたんですよ。なんのこっちゃ?と思われるかもしれませんが、やがて水浸しになる日がくるとぼ〜っと考えていたわけです。まぁ、妄想していたという方が自然かもしれませんね。北海道って、外車が日本一購入される地域ですよ。農業関係のものですが(笑)
 大きな農場。この規模も本州の比ではありませんよね。そんな北海道が水浸しになったとしても、被害は相当なもので、日本全体の流通にも食にも影響が出る。そういう事をひとつひとつ考えていたのです。

「これがキリスト教」といわれ、「イエスと正体」だのとかなりのスピードで流布されている事も、大波になると厄介です。
「これを阻止しなければ!」と言う事はもちろんありません。聖書の預言を信じていますからね。起こるべき事が起こる事についてそれほどには気をもみません。ただ、それを信じる事によって道を分かれる人々がいる事に胸がざわっとするのですよ。

しかしね、最終的には道を分けて存在したいと思ってしまうほど嫌いな人が私にはいるのです。赦された借金取りの原理を理解できない人のようでしょ?何度も何度もその気持ちに打ち勝てるように祈ったりしてきましたが、その瞬間や直後から怒りを焚きつけられるというかね。私の穢れの部分ですわ。だから、この事について胸がざわつくのは、多少自分を棚に上げて善人ぶっている表れなのかもしれません。

まぁね、とにかく、今の私の思考の一部をテーマに合わせて書いてみました。回り道の余談です。



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posted by Mako at 16:02| 一人じゃないよ