2021年01月12日

ナショジオの記事読みました?



あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。
恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。
あなたを攻める者は、あなたによって倒される。
見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。
あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。
また、 さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。

イザヤ 54



イザヤ書には多くの引用しらい箇所があるので、選択が難しいです。

▼ナショジオに興味深い記事があります。
2700年前の封印を発見、預言者イザヤのものか?

このイザヤの書簡ですね。

神は、祝福や幸いも創造するが、災いをも創造する。時々これを忘れます。
武器を鋳造する職人を作る者の創造主が神ならば、それを破壊する者を創造したのもまた神です。
これはサタンや悪霊達にも言える事ですよね。
それを創造したのもまた神なのです。

人は言います。
「もし神がいるのであれば、何故世界はこのような有り様なのだ?」
聖書は答えます。
「世から神を排除し、それぞれが自分の好む物を神とした結果である。』と。

神を、自分に好ましい物に定義づけ、それと比較して見合わないので「神はいない」と言う。偶像が生まれてきた経緯です。
戦をすれば戦いの神や勝利の神を求め、戦の後の惨状を慰める母人のような慈愛の神を求める。
病になれば癒しの神を求め、何かを憎めば呪いの神を求める。
恋すれば縁結びへ行き、嫌になれば縁切りに拝みに行く。
『自分が神として必要とするもの以外は神として認めない』事が聖書の言う罪、創造主への裏切りです。

「自分を信じる」「金だけは裏切らない」こういtら物も性質は同じです。

前の投稿で、私に手袋をプレゼントしてくれた保険の先生の事を書いたのですよ。私はとても嬉しかったので、先生にも何度もお礼を言ったし、寝る前のお祈りでもお礼を神さまに言うわけです。

「おい、良くしてくれたのはその先生だろ?神じゃない」と言う答えもここにあります。
その人を創造したのもまた神です。そして、そのようにして行動してくれたその先生に報いてくださるのもまた神なのです。



あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

マタイ10:40〜42



さて、様々な困難や災いが起こるとき、神からのものなのか?についても考える事があります。ヨブ記は正にそれです。ヨブは最後まで神を信頼しました。
それが神からのものかをジャッジする事もしません。私もそのようでありたいと願います。
全ての時が満ちると、明らかにされる事になります。それまでわからないのは、私達人間には理解出来ないので覆われているのだと思います。

神は私達の生みの親であり、良き夫、妻であり、生涯で絶対に裏切る事の無い親友です。

ふんぞりかえって拝ままれる事、崇拝される事を強いるサタンや悪霊達のようではありません。かえって私達よりも腰を低くして、人に尽くすようにしてそこにおられます。神を探すのに上を見ても見つかりません。低いところにいる神を高く掲げるので上を見るのです。




預言者イザヤは、他の預言者とは少々違います。
「ここに私がおります。私を遣わしてください。」こうして名乗りをあげた事から預言者人生が始まります。

その他の預言者とは少々違う預言者イザヤは、今日黙示録預言に向けてのキーになる多くのメシヤ預言を託されました。
メシヤキリストを拒んだのがユダヤの民でありながら、それを預言したのもユダヤの預言者です。
また、ユダヤ民族は、黙示録総仕上げを招き入れる事になる鍵となる民です。ですからサタンや悪霊達による多くの困難を経験しました。血を混ぜて民族浄化しようとしたり、民族の根絶に追いやられたり。
しかし、古い色々な物が発掘、発見され、ユダヤ人達の間に分裂が起きています。

『あの磔刑になった男、イエスは何者か?』

これです。これで分断が起きています。



わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
マタイ 10章



メシヤは平和や調和をもたらすのでは無いのか?イザヤの預言からだけでも粗方理解できます。
ユダヤ民族が神の賎民と呼ばれるようになったのは、メシヤを世に迎える為です。



神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

創世記 3章



イエス降誕はラインを引いた箇所成就の段階なのです。
人に理解できる平和は、もっとずっと後です。人の定義する平和は神のそれとはかなりズレがあります。人は全てを熟知できない中からの最善を選ぶだけなので不完全なのです。

その平和が来る、それを招き入れる役割を果たすのがユダヤの民です。

サタンは終わりが近い事を悟ると悪霊達と共に暴れ出します。スピリチュアルブーム、自己啓発、善悪の逆転現象。あげればキリがありませんが、そのような物が盛んになるほど、預言の時が動いている事を考えさせられます。
そしてやっぱり改めて思うのです。

「それを創造したのも神である」と。全てが預言成就に向かって動いていると感じるときに考えます。

posted by Mako at 12:52| 聖書関連