それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。
それは神が明らかにされたのです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
ローマ
最近、過去の事から現在の事に至るまでの事に思いを巡らせているわけなんですけれども。
クリスチャンにしか理解できないかもしれない事を本題として、少し書いておこうと思うのです。
私に起こった多くのことは、もちろん私が直接的に引き起こした事もありますが、神がそれが起きる事をお許しになったのです。ここで、烏滸がましくも言わせて頂くならば「神がそれが起こる事をお許しになった」と言う未来を神が知っていた事について思いを巡らせるのです。
その経過として、私が語るよりも多く、私が直接語らない相手にも、様々な形で神の言葉が伝えられたという事実があります。
ここで出エジプト記を思い出すと、何度となく「神が頑なにされたので」とあります。
イスラエルの民を虐待し、虐げ、打ち、所有物のように扱った彼等の心や意思を神は頑なにされました。それによってイスラエルの民の嘆きと苦しみが延びたとしてもです。
それで、裁かれる者は裁かれるままに海の底に沈むまでになりました。
神の言葉を受け入れず、自分を正しい者とし、イスラエルの民の所有者として振る舞う事をやめなかったからです。
そこで私は一度、彼等は神から私に渡されたと考えるのです。
もし、神が戦に誰かを向かわせるならば、1番力が無く弱い者を選ぶでしょう。
語る事が誰よりも苦手で、「無理ですー」と言い続けたモーセを選んだようにです。
罪には色々ありますが、世の罪に1番近いところにいた私の肩に、キリストが手を置いたのです。ロトが滅びの門に座っていたのと同じです。
それならば、私はその多くの人を失いたくはありません。しかし、私が頑張っても、残るのは僅かだろうと思う気持ちもあります。何しろ頑なですし、私自身、その人の為に怒れる人でなければならないという現実もあります。
私は誰も罪に定めるような事はしたくはありませんが、そうもいかない事だらけです。
本当のところを詳しくは書けないので、多くのことは伝わらないと思います。
そして、私はあなたの罪を思い出さないと語る完全な赦しを与える神のようではないという問題もあります。私はきっと、怒るにも思い起こすのにも早いだろうと想像がつきます。他の思い出が無いからです。
違う楽しい思い出が無い。けれど、それに応じて世にない多くの喜びや慈しみ、赦しを多く受けました。
受けたものを埋めて隠すのは愚か者がする事です。ソロモンは何と言うでしょう。愚か者はすなわち神を知らない者です。
私は神を知らない者でしょうか?いいえ、私は決してそうは言いません。
しかし、神を知らない者のように全てと向き合いたい私の方が強いのです。
そうなれば、彼等の血の責任は私に残るのでしょうか?と、自分の事を考えてしまったりもします。
私は、「イエスさま」と言いながらまとわりついて、子供のようでありたいのです。その事の問題点は、キリストの民としては乳飲児であって、成長した大人にはなりたくないのです。だって、いつもその方面では、自分の事で精一杯ですから。
そうやってダラダラ時間が過ぎて、冒頭の聖句が頭をよぎります。
大人にならず、子供のまま終わりを迎えたい。
このような気持ちってわかる人いますかね?
おちついて書ける環境になったのでちょっと追記。
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