2021年01月14日

ワークサポートクッションエアーインが気になって…

ちょっとカウネットが出した『ワークサポートクッションエアーイン』が気になってます。見た目がアレなんで欲しくはないですw

デスク仕事をしているときなんか腰痛に悩まされるのを軽減するグッズなんです。

要するにチェアに置くクッションなんですけど、脇にある秘密のポケット?(笑)
そこを使うと空気が入って斜めになるんですわ。それで体を好きな角度に前傾できるので腰痛軽減って事なの。

それならば…ですよ?
そのクッション使わなくても前傾できればよくね?と思うわけです。

このクッション別売りの背当ては5千円前後で買えるんですけど、座面の方は7〜9千円するんですよ。それなのに、オフィス使いを意識してるのかなぁ?可愛さも都会チックな感じも全然無いの。ただの事務用品って感じの見た目なのよ。

とりあえず背当てというか腰当てはどうしても欲しいじゃない?

で、欲しいのがこれ。

腰当てとブランケットがセットになったハム。ハムじゃなくてにゃんこだったらなお良しなんだけど無いのだわぁ。あるのはハムだけなの。チッちっ(怒った顔)
同系色のクッションを置いて、それを斜めにできればいいんじゃね?って思うわけですよ。

そんな単純な話じゃないの?もしかして?ちゃうの?
ちょっと数日チェアに座るときに、座面を斜めにしてみようかなぁ?なんて思ってます。




トランプさん関連動画を見ようと思っているので早速斜め前傾やってみちゃう事にしたぁ!

posted by Mako at 21:34| 日記

殺すのは神か?人か?

聖書に書かれた罪とは、神を神とせず無視して生きる事である。と簡単に言えばそうなります。

「自分を崇めないと怒る心の狭い神」と、聖書の神、創造主を批判する人がいます。私はこれを、ある意味良い事だと思います。批判は考えを整理するのに役立つ場合があるからです。
しかし、その意見や見解にも、疑問や批判を持たなければならない事までは多くの場合はしないのです。それが問題です。

虐めのような間接的であっても、殺害のような物理的であっても、戦争のような時の事象であっても「人殺しは良くない」と、皆が言います。それは正しい事です。

最初に書いた罪の定義ですが、罪人は死に定められると聖書の最初の書から記されています。

「自分を崇めないと殺すのか!」と考える人がいるかもしれません。ここように考える事も、大事な事です。神は人を思慮深くあるように勧めています。考える事は人の特権でもあります。




そろそろ上記の批判に答えましょうか。

「私の命」「あなたの命」「彼等の命」

どれも正しいのですが、命の真の所有者は、それを生きる者にした神のものなのです。
「生まれよ」
「生きよ」
そうして神が与えた者なのです。

この今の世の始まりから、人はこの世の統治権を神に任されています。
命をつなぐ(子孫を残す)事も統治権のひとつです。

次に、身体が生きる為には水や食べ物が必要です。同じように命もまた、栄養が必要なのです。

英語が苦手なので引用したくありませんが引用しますね。私が歌の歌詞にと考えた骨組みの文章です。



If I have thirsty, Please yours water to me.
That water comes up from a spring in my heart,
and it causes me to have true life.



「私が乾いているならあなたの水をください」と求めています。
これは命の栄養を求めているのと同じです。霊や魂、命と表現されるそれは、神からの栄養補給が無ければ続きません。いつかは干上がって枯れてしまいまいます。
神は命の源です。心の中や私のうちと表現されるところに泉が湧くとは、命の源泉である神がそこに留まる事を意味します。

さて、神を無視する。つまり神を捨てて生きるとどうなるのか?という最初の問題に戻ります。
遅かれ早かれ死にます。命が尽きるからです。

神を捨てて生きる事は、命を捨てる(殺す)事と同じ意味なのです。
つまりですね、殺しているのは神ではなく人であるということです。神は「死んでしまうといけないから」とそれを引き止めたのです。

それでも人は命の源を捨ててしまいました。そこで神は、別の方法で命を殺してしまう事から人を救う方法を実行したのです。それがゆっくり成就をしながら進行している聖書預言です。

神から離れた世が人に与える常識や考えは、基本的に真理とは逆というパターンが多いです。

最近のアニメで天使とは、無気質で無慈悲で勝手なイメージのあるものになっていますよね。あれは実際には堕ちた天使の姿です。それに対して人間味溢れる寄り添う理解者のようにサタンや悪魔が描かれています。
そうです。逆なんです。
人って割と素直さを持った生き物なので、与えられた情報をそのまま吸収しやすいんですよ。ちょっと気恥ずかしいかもしれませんが、これを読んでるあなたもけっこう素直なのよ(笑)

なーんであんなのに騙されちゃったんだろう?
その目に弱いw
こんな事ありません?
本当は自分には関係無いんだけど…でも仕方ない!人肌脱ぐか!なんて、ついしてあげちゃう事ありません?
人は結構素直なんです。
亭主関白な波平だってフネさんのいう事はスッときくでしょ?あぁ、あれはアニメかw

※この投稿には おまけの余談投稿 があります。
※更に続きがあります。『『静かに続いている霊との戦い』
posted by Mako at 14:42| 聖書関連

イザヤを想う



もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。
しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。

ヨハネ15:22






クリスチャンが存在するところでは、神のことばが何かしらの形で語られる事になります。未来を予知する者を預言者と定義している人は多いです。でも違います。『神の言葉を預かる者』こそが預言者です。
未来を予知する者は、予見者です。これは聖霊が与える賜物のひとつでもあります。
聖書に残されるような預言者達は、聖霊に満ち満ちているので予見もできます。しかしそうではなくて『神が予め告げた事』が後々起こるという事で預かっている言葉の語り手なのです。

そういう事ですから、真のクリスチャンは預言者の1人でもあると言えます。私が前回書いた事象について、私の愚かさを露呈するわけですが… 私が意図してもしなくても、私が語っても語らなくても、神の言葉が色々な面で届けられました。私以外の人にです。

ある者は聖書の引用によって。ある者は賛美を聞く事によって。ある者は文章によって。ある者は聞く事によって。方法は様々です。
この事について私が愚かであった事の説明をするとこうです。

私が語るべき事を語らないので。
私が告げるべき事を告げないので。
私が証すべき事を証しないので。

これらが揃って、キリストがそれをしたという事です。

キリスト教弾圧や迫害は、ユダヤのイスラエルから始まりました。イエスを主(しゅ)と告白する者を、捕らえ、打ち、殺し、奪っていました。その仲間の中にパウロがいたのです。
同じ過ちをしている人物や、それに1番近い人。パウロの場合は近い人物で、これから本格的に同じになるところだったと私は考えますが。
そこから1人を選んで、その人達に神の言葉を届ける者とする。これは割と良くある神の動きなのかなぁと思います。



「荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」"

ルカの福音書 3章



ヨハネについて記されたルカの箇所です。イザヤ預言が成就した事の引用ですね。

この光栄に私は預かる事ができなかったという理由で愚かです。主の為に道を備える光栄を自ら逃してしまったのです。
語らない事。告げない事。証しない事によってです。

学識のある学者が集まる場所ではなく、立派な宮殿ではなく、善人と呼ばれる人がいる場所でも無い。『荒野』で。ここに私は注目したいのです。肥えた土地ではなく、潤った地でもない。荒野です。
私達のイエスが訪ねて歩いたのは、善人や道徳的に優れている者ではありません。罪人の頭と呼ばれる、現代の私で言えば反社的人物や、病で死を待つだけの人々、悪に支配された凶暴な人のところへです。
それもまた荒野と言えます。

私もまた、色々な事があって荒野にいたわけですが…
ことごとく神に逆らって駄々をこねて何もしなかったと言う事ができます。

主の通られる道筋を真っ直ぐにする事の光栄は、イザヤのようでなければ得られません。



「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」



こう言えなければ得られません。イザヤはキリスト降誕のときも、世の終わりに向かっても、無視できないほど重要な神の預言を残す者になりました。




まぁ。なんていうか。
後悔はたっぷりしている。そういう事です。
posted by Mako at 14:09| 一人じゃないよ