主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
Tコリント11:11〜12節
これを文語訳聖書で読んでみましょう。
されど主に在りては、女は男に由 らざるなく、男は女に由らざるなし。
女の男より出 でしごとく、男は女によりて出づ。( 而 して( 萬物 はみな神より出づるなり。(
ふりがな適当派( ´ ▽ ` )ノ
適当にふりがなをふってしまいました(笑)
日本語の響きの美しさが、文語訳聖書にはあると思います。
先に書いたのは第三版の新改訳聖書の引用です。言葉の数が違う事に気づくと思います。
私は、現代人に近付くほど、人は本来の賢さを失っていると考えています。
本来なら、特に空気を読む日本人にとっては、多くを語らずして理解する事が出来ていたと思うのです。
しかし現在では、言葉(単語)にしなければわからない事が多いほど、本来の能力が失われていると感じるのです。
外国語を学んでいると、ドイツ語と日本語ほど『造語』を作り出す民族はいるだろうか?と考える事があります。
ドイツ人が日本語を学ぶのは生まれ直すぐらいに難しい事です。逆に、日本人がドイツ語を学ぶ事もそうです。その上、そのどちらも、毎年新しい造語を増やし続けています。
簡単に短く表現できる事は合理的ですが、それだけ、文脈や話し手の意図を読み取る力が衰えている。
なんだか合理的に生きる為に、あるべき姿を捨てる事に虚しさや寂しさを感じます。
よく『科学的』なんて言葉を耳にしますが、それもひとつの宗教だ。そう私は言います。
何故なら、それを根拠として『信じるか』それとも『信じないか』にかかっているからです。
現在それが正解だとされていても、5年、10年、100年… 時間が過ぎれば塗り替えられていきます。
やがて塗り替えられるものを『真実』と『信じる』のだから、それは『宗教』です。
正しさや正解として提示するならば、普遍であり不変でなければなりません。
しかし『科学』というものはそうではありません。
自分の見たものだけを『信じる』というものを、私は『自分教』と個人的に呼んでいますが、これもまた『宗教』です。これは『自分を信じる』事から始まるので『開祖=自分』です。
『自分教』は世界を狭めます。自分の理解力や自分の経験、知識量によるからです。
先程引用した聖書箇所のように、男によらず女は出ず、女を通らずに男が出る事も無い事は、周知の事実です。科学も宗教も無関係な常識です。
『自分教』は、この常識にも逆らいます。
修学旅行が楽しかった思い出の人もいればつまらなかった人もいる。しんどかった人もいれば、面倒だった人もいる。
人の数だけ違う思い出があります。
修学旅行を期に、異性に恋の告白をしたなんて経験は、上手く行った場合以外は他人に知られたく無いでしょう。
それを隠している人の心中は知る術がありません。
100人いれば100人のストーリーが存在しますが、『自分教』は自分の知れる範囲が狭い事に目隠しをしてしまいます。「自分の目からは、彼は楽しそうに見えた。だから楽しかったと思う。」で終わってしまいます。
造語を作る事で合理的になった分、本来人が持っている力が衰えている事に似通った劣化を招いているように感じます。
人の痛みや苦しみに鈍くなったり、そういう事もここに由来しているように感じる事があります。
男によらず女は出ず、女によらず男は出ない。しかし全ては神から出る。
先日私は、神は人が生きる環境を整えてから人を造ったと書きました。これは聖書にある真理のひとつです。
しかし、これでは不十分なのです。
携帯電話、自動車、洗濯機、電子レンジ…
人は多くのものを作ります。何故ですか?理由があるからです。
便利さ、時間の短縮、生活の充実、色々です。
神が人を造った事も、その理由があります。その人を造る事のために他の物(自然や酸素、水や大地等)が造られた事と同じです。
クリスチャンにとっての光栄は、全知全能の創造主である神が自分を造った事です。
男によらず女は出ず、女によらず男は出ず、そして、命のきみ、霊の主(神)によらず人は出ない事。
これはクリスチャンの信仰の基本です。
信じる事は拝み倒す事では無く、修行をする事でも無く、信頼する事に尽きます。その信頼は愛に始まり、永遠に続くものです。
私は、男によらず女は出ず、女によらず男は出ず、全ては神によって出るというこの言葉から…
人の欠けを見出すのです。
科学なら、自分教なら、この最後の文言を排除してしまいます。
そして私自身、この自分教こそが私の最大の敵であり偶像である事に悩み続けるのです。
でもね…
『信じてる』に帰着するところをね…
新しい歌にしたいのよ。
ところが…
なんと難しい事か!!(泣)
御言葉と証の蓄積と、歩んだ日々が輪郭を持たないとなかなか進まないみたい。
文語訳聖書を気にするのはね、きっと語彙数を減らしても広がる空間と、それを作り出す言葉を探しているのだと思う。