2019年10月07日

定義 (10)







米田さんの曲には名曲が多いけれど…
これは、キリストイエスの語りかけをよく表現できている曲だと思います。

人は、多くの事に傷つくけれど、時間がたってもどうにもならない事がある。落ち込んでもいられないので、忘れようとする。考えないようにしようとする。
キリストに出会った人の多くは、どんなに仲良しでも、家族でも、自分でも届かない、心の奥底にある傷に触れられた事がある人が結構いる。

味わった事の無い人は、何かの比喩だとか、神秘主義のように扱う。

魂を引き裂かれるようなあの想いも、嘆く暇も無く忙しくしていた事も、ただ時間だけがたったと茫然としている時も、主は共におられたではないか。
疲れていたあの日、あなたの目の前に、真っ直ぐあなたを見つめ、笑いかける者があった。それは、あなたがその日を迎える前に、主があなたの前に置いた。

その日々を主は覚えておられる。




親というものは、子供にとっては覚えておくに値しない事までも覚えているものですね。
私は、私の神、(しゅ)が、そのような方で嬉しいです。

祭祀として取られたイスラエル民族、その内のレビ人。彼等は、人が神を捨ててから再び出会うまでの間、1番神に近いところにいました。

それでも、背信が起こる。神が見えなくなるのは、人の苦痛です。

「私は神を捨てたりしてない」と人は思うのだけれど…
毎日捨てているんだよなぁ。

あの実を食べる前「それを食べよう」と思った瞬間に捨ててる。食べた後と前では、取り返しがつくかつかないかの違いしかない。




えっと…
なんだっけ?そうそう!生贄。
生贄を捧げるのに必要なものは祭祀です。
イスラエル氏族のレビ人がそれですね。

聖書の神は、大人も子供も、女も男も、年寄りも… 人を生贄として捧げる事を禁止していました。
けれど、知っている人は知っているでしょう。
イエシュア(イエス)は、私達の罪の為の生贄です。

「彼は人では無いのか?」と聞かれれば人です。
「人を生贄にする事は禁止されていたのでは無いのか?」と問われれば、全くその通りです。

人の命は人の命でしか代価になりません。私達の受けた死の呪いは、人の命でしかどうにもならないのです。

動物犠牲は、それが済むまでの間許された代替えです。だから、毎年毎年、何年も、何百年も、何千年も行われてきました。
『生贄となる人』がいないからです。

息子イサクを捧げよと神に命じられ、息子を捧げる為に山へ向かいました。


イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。
イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、 全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。
アブラハムは答えた。「イサク。 神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ 。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

創22:7〜8


信仰の父と呼ばれるアブラハムの答えです。
『神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ』

私達の罪のための生贄となったキリストイエスは、神ご自身が備えたいけにえの羊です。

これではまだ答えが足りませんね。キリストイエスは人ですから。

以前にも引用した聖書箇所をもう一度引用します。


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
イザヤ43:4節


この引用箇所は動機です。
次に詳細が来ます。


わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。 わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。
イザヤ43:10〜12


キリストイエスは、自分自身が人の為に捧げ物、罪の為の生贄の羊となった聖書の神です。
人の命は人で無ければ(あがな)えない。だから、その為に人となって生まれてきた創造主です。

罪を贖えるのは、傷の無い羊です。
人として世に(くだ)った以上、神に信頼して歩む信仰者でなければなりません。
だから、人となって生まれた彼は、父なる神として創造主である(くだ)っていない神の信仰者として生きたのです。

神に背いた人の罪の代価になれるのは、神に背いた事が無い人の命でなければならないのです。




人が神として祀る神々と同じに考えてはダメです。
全てを創り、全てを治める神は、時間も支配する神です。
天体や自然の神々のように、時間軸の中にはいません。

信仰者として、造られたままのアダム(このアダムは人を意味する代名詞的名称だと考えてください)として正しい人である為に、神の霊と(わざ)によって、女の胎を通って生まれてきたのです。

生贄を求める神々は古代からあります。けれど、神は人が自身で受けた死の定めから救い出す為に、自身の命を捧げたのです。

クリスチャン達は、これを理解するまで葛藤や疑心、色々ありました。
けれど、これを理解し信じるのも神の(わざ)によるのです。




もう一度定義を言います。
イエスキリストは、人が神になったのでは無く、神が、人となったのです。

イエスキリストの前にも後にも、メシアについて預言者達が預言した通りに世に出て、預言された通りに苦しみを受け、預言された通りに死んで葬られ、蘇った者はいません。

イスラエル民族の祭祀がいるうちに、祭壇と神殿があるうちに、罪の犠牲となりました。
その後で、預言されたメシアは出ようがありません。

2系統の中の1系統から出る子が残っているだけです。

神はクリスチャンの神では無く、全ての者の神です。
神が自ら降ってきて、人の罪を贖ってくださった事を信じる者は救いに入れます。これを読んだ誰でもです。
なぜ信じる者だけなのか?全てが人の背信から始まったからです。
背信をやめるきっかけが、イエスを遣わされた救い主と信じる事なのです。




キリストは、私の命です。彼の命によって、私は命を得ました。
だから、遊び話に使われるのはとても悲しい。
私の事を言われているのと同じだから。

話を戻して…
祭祀が必要だった理由がわかりますかね?
後の贖いのためです。

聖書は、神の救いの計画書と言う事ができます。
天地創造の大きな話から、急に民族史のようになるのはこの為です。

レビ記や民数記は、いかにイエスが、生贄の手順通りに血を流したかの参考になります。

私も実は…
あの辺の書は苦手なんですよ。読んでいて退屈しちゃうダメな子っぷりが露呈する事も頻繁にありますです。

そんな祭祀の勤めと手順、種類、こういうものに詳しくない異邦人の中で新約聖書が完成しています。
新約聖書はキリスト以降です。
posted by Mako at 17:40| 聖書関連