2019年10月08日

真逆の定義から思う事

逆、逆、逆、そして逆…
ひとつずつ拾って考えてみると、聖書が示す道、善悪、人の素晴らしさ、人の悪…全部逆だなぁと思い知らされた気分です。

天にあるもの、地にあるもの、水にあるもの、これらに祈るような行為、崇拝するような行為は、妻が夫を捨てて別の男に走るのと同じ行為なんです。
子が家出をして 勝手気儘(かってきまま)に、親の財産を浪費するようなものなんです。
世にあるものは、人が親から受け継ぐ財産のようなものだからです。


息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。
ミカ7:6


ミカは預言者イザヤの頃活躍していた預言者なので、紀元前8世紀頃に書き記された書ですね。

現代では…
親が子を虐待し、夫が妻を虐げ、妻が夫を侮り…
人って変わらないですね(笑)

人が神を蔑ろ(ないがし)にして、自分自身が良いと思うものを選ぶという『善悪を知る知識』の実の効果を味わい続けています。

聖書で言う『罪』を、英語で言うと『sin』。中央に『I(アイ)』が来ているところがピッタリとその中身を表しているとよく言いますね。

ラテン語と同じ単語を使うイタリア語では『 peccare (ペッカーレ)』です。i のような意味合いのものは入りませんが、前半の『pecca(ペッカ)』は、『 罪過(ざいか)』です。英語では『sin』のままかしら?


しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 −−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです−−
エペソ人2:4〜5

【イタリア語】
anche quando eravamo morti nei peccati (nei:前置詞 in 複数形、peccati: peccato(peccare)複数形), ci ha vivificati con Cristo
‭‭
【英語(KJV)】
Even when we were dead in sins , hath quickened us together with Christ,



KJVですが、やっぱり sin のままなんですねー。




  • 「私が決める。」
  • 「私が選ぶ」
  • 「私を信じる」


基本はこれなのだけど、これの何が悪いのかわからない教育を世はするのよね。
これを正当化する文言を並べたのが啓発系だね。

軸が自分なので相手が居ない。
相手の為に良かれと思ってする事も、自分から始まり自分に帰着する。

親が子に、
「あなたの為を想って言ってる・やってるの!」
と言っても、子は見透かしたように言う。
「自分の為のくせに!」

自分にとって相手にどうあって欲しいか。これに欠けがあるとそうなる。
帰着する結果も、自分が考えるどうあって欲しいか。これに合わないものは受け付けないので、暴力や抑圧で押さえつけようとする。

相手の存在すら自分の為。これが集まって家庭を作ると、聖書箇所のようになる。家の中に逆らうべき相手、ねじ伏せておく相手、つまり敵がいる。

家庭ですらそうなのに、これが地域や社会と広がれば…
今のようになるのは避けられない。

個々が「善いものを望んだのに」と言っても、それは実現されない。
社会が広くなっても「自分の子供には善いものを」「自分の家族の食べる分を」と、やっぱり『自分』が立ちはだかる。
これが集団になって衝突し合うと、紛争や戦争になる。

けれども、こんな時には人の口から神が登場する。
「神がいるなら、どうしてこんな世の中なんだ?」

こんな状況を作る事で肥えている人々が創造した真逆の真理を、懲りもせず、飛びついて受け入れる。
さらに世が悪化する。

聖書の預言通り進んでる。




霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。
なぜなら、 まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない からです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

不法の秘密はすでに働いています。 しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めている のです

Uテサ2:2〜7


「キリストは2人いる」とか「キリストが〜から生まれる」とか聞くことになる事も、クリスチャンが先に知らされている通りです。
必ず起こる事が起こっているだけです。

『背教』を引き止めているのは、同じ所属のクリスチャンです。それが居なくなると、そのステージの幕が開きます。
黙示録の時代です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16


滅びの子のために用意されたところに、相応しくないように造られたはずの人が、1人でも永遠に入れると良いですね。

マラナータ。アーメン。
posted by Mako at 08:05| 聖書関連