2019年11月25日

時代と戒めで思った事

人生で1番許せない人。これがいるのは不幸な事です。
許せない理由がたくさんあって、許す理由も見つかりません。
例えば、帰宅途中で殺されてしまった子供の親。
犯人を許す理由も無いし、そんな事を考える必要もない。

「あなたは犯人を許すべきだ」という人が現れたら、言われた人だけでなく、聞いている人も起こりだすと思う。

それをしなさいと聖書に書いてあるのは、無理難題を人に言っているのではないと思うのよ。

人が人を許すのは難しい。実は神も同じなんです。
神は本質上それと共存できません。
字は変わりますが、それでも神は人を赦すのです。
神は聖であるので、人よりももっと赦せない方です。
だからイエス・キリストを世に送りました。

クリスチャンは、なんの代価も無しに、ただ恵みによって受けたものは、代価無しに流していきます。
受けた分を忘れて人を断罪する事は罪だからです。

しかし、この苦い水を飲めるようになるには、信仰と経験と御言葉と祈りと、多くの事が必要です。
そして、自分の力や信仰の深さでやろうとして失敗を繰り返すものです。

私はできない自分をキリストの前に裸で持っていくだけで良い事を知るまでに時間がかかりました。
神からの命令を、自分の信仰の力量でしなければならないと勘違いしていたのです。
私が自分でできる事など何もない事から始めなければならない。
私はこの事で、多くの事を主なる神からまなびました。
子供をよくわからせるように、ひとつずつ、私の自我にも付き合って、忍耐して教えてくださいました。

できる事はただ恵みにより、受ける事もただ恵みによります。




姦淫について、また同性愛について、時代に合わないというような意見がありますが、やっぱり本質を考えるべきです。

天地万物が造られ、人に多くの事が委ねられました。
草木、空を飛ぶ生き物、地に住む動物や虫達、水中を泳ぐ魚…
そして人…

神は命を繋ぐものを造りこの世に置かれました。
私達が生きるこの環境の何かが1%の狂いもなく、生きる為に動いている仕組みは、命を繋ぐ為です。
命を繋ぐ事は聖なのです。
聖を欲望で汚してはいけないと神が言ったのには必ず理由があります。

私も、教師達も、熟したクリスチャンさえ見えていない事まであります。

聖書は「生きよ、死んではいけない」と言っています。
命の親、霊の親は神です。それを受ける行為は愛を深める行為でもあります。
人の子が命を持って生まれ出る場所には愛があるべきだからです。
何故なら『神は愛』だからです。

姦淫は受け継いで行く財産も健康も害し、家族を破壊します。
親が性病を持てば、子は生まれながらにして性病持ちになる事もあります。いえ、感染せずに済めばラッキーなのです。
性病は症状が治ればというものではありません。
感染したら持ち続けるものもあります。

未来の夫や妻、子に感染するリスクを犯してまで身を汚す事は愛でしょうか?
神は性行為をするなとは言っていません。
ですから子をつくるためだけにあるのではありません。
結び合わされてひとつとされたカップルだけにゆるしているのです。
それは正しい相手と愛によって行われるべき行為だからです。

時代は無関係です。
そのような時代だからこそ、クリスチャンにはそれをきよく保って欲しいと願っているのではないでしょうか?

自分の願いはぶつけても、神の願いには無頓着になりがちです。
人が人を赦すのは難しい。神にとってはもっと難しい。けれど赦すのは、人に生きて欲しいからです。
新しいパートナーができるたびにそのような行為をするのは、神の前に死んだ行いなのでは?

神が人にそれをしないように言う事のほとんど(全てと言って良いと思う)は、神のためでは無く人の為です。
安息日と無関係な人々ですら、最低でも週に1度は休もうとします。
現代ではそんな必要は無いと言えるでしょうか?
昔も今も、人には休日が必要なら、姦淫は時代に影響されるでしょうか?
posted by Mako at 00:04| 一人じゃないよ