2020年06月13日

コントロールできない事の葛藤と肯定?

リラを聴きながら書いています。


ゴルゴ13の後ろに立つとヤバイです。奴の背中をおさえたら生きて帰れません(苦笑)
同じように、私には絶対やってはいけない事があるんええすよ。他のどんなにひどい事をゆるし続けたとしても、それだけは絶対ダメって事があります。
ある人には「それ絶対禁句」とか「それはガチでNGワードだから!」って事があるでしょ?
私にもあるのよ。因果関係がそこにある実害や損益も、大切にしていた物事ほど何を言っても無理なんです。

虐めで子を亡くした親に、いくら事情説明をしようが時間の無駄でしょう?その子はもう帰ってこない。理由を正当化したって「仕方がなかった」とは思ってくれないでしょう?
手遅れになったものが多いほど、その言い訳に興味なんて無いものです。




私はクリスチャンなので、キリストがゆるしてやりなさいと言えばゆるします。でも神では無いので完全なゆるしを与える事は難しいのです。

私にとって、それは絶対やってはいけない事。これも知らなかった、わからなかったで済む期間ならまだしも…
どれをどの角度から見ても手遅れな事ばかりなんですよ。
自分が「そう思うのは当然の事で、そうされるあんたが悪い」と、その言い訳を通す前に『私との対人関係』が正常なら、そんな考えも起きないわけで…
これからも「当然の事を言ったまで」「当然の事をやったまで」と考えている人と、深いお付き合いはできないのよね。

これまであった色々な事について、今の状況についてもね。「キリストが必ず益に変えてくれるから。」そう思う絶対的信頼があるので、今頑張っていられる事が多いのね。「ゆるしてやりなさい」とあなたが言うならそうしましょう。今その域に達していない感情についても、あなたがそう言うならそうなるでしょう。でも…」とでも、しかしがつくのよ。「必ず益に変えてくださいね。」という願いだったり「これらの苦しみや悩みから解放されるための場所と空間が欲しい」という願いもあったり。やっぱりオプションが付く。
そして、そうして当然。そう言って当然。そう思ってそれを言わずにいられない、やらずにいられない人とは、少しでも人としての距離は置いて起きたいの。




私はクリスチャンとしては落ちこぼれなので(苦笑)

韓国でしたっけ?自分の子供を殺した犯人を養子にして更生させた牧師がいるじゃないですか。私はそうはなれないんですよ。今できる精一杯を超えて、イエスさまに何かを言ったりやったりができないんです。
「あなたがそう言うならそうしましょう。」その先に続きの言葉があっても「御心のままに」を付け加えて願うのが精一杯なんですね。

「あのサムエルだって、「ハーゲ!」と嘲った子供達に怒ったじゃない?」なんて都合良く語りかけるような事も普通にやります(汗)
わかっていてもどうにもならないのです。
それでもマシになったんですよ。
「これをゆるして良いわけがない」と言い切って、ずっとやる気満々揉める気満々で祈っていた愚かな時を超えての今ですが。
まぁ… 『復讐は神のする事』なので、根本的な問題は私の手に余るし、そこは手放すしか無い事は最初から決まっているのですけどね。どんなにゆるせない事があっても。
でも仮に、この人とかかわっていたら、私は何かをやり返したり、あの時のあの言葉について言い返す機会をうかがったりするとわかっているなら、その陥りそうな愚かな事から身を避けるのも知恵だと思います。




クリスチャンにとって『死』は終わりでは無い。
これが良いように作用すれば、あの牧師のように生きられるのかもしれません。私は世で生きる事に縛られ過ぎているのかもしれない。

私にとって『死』は、安心して住まう事ができる家に帰れる日です。
天のお父さまの家、ソだなぁ。実家に帰るようなものです。
今目の前にある問題をどれほどクリーンにしても、完全じゃない。
今は『最善』を成し続ける憐みを受ける事しか出来ない。
それは理解しているのだけど「でも向上心は持った方が良いでしょ?」なんて自己を正当化しようとしたりする自分も見え隠れして^^;

自分の感情ひとつ、心中ひとつコントロールしたり制御したりできない自分をマジマジと眺めてみてね…

「人間っておもしれー!」って思うの(笑)
理屈じゃない。
感情じゃない。
経験や思いが重なり合ってそれぞれ違う考えや性格、失敗や成功を繰り返してる。こんな人間を慈しんでやまない主なる神。「おもしれー!やっぱり大好き!」って胸が踊るの。

今、私がダメな子やってても、きっと神さまとの良い思い出になる。それだけは味わい尽くしながら生きてるから、感情や思いをコントロールしきれない事も、のんびり構える事にするよ。

posted by Mako at 09:10| 一人じゃないよ