2020年06月14日

まとまりの無い文章でタイトルわからんw

子供の頃、よく歌っていたクリスチャンミュージックのMIDIがこちら(私は夜明けに)にあります。たぶん元のURLでリファラしているので、こちらからタイトルクリックしないと音が出ないブラウザがあります。
『きみもそこにいたのか』のような黒人霊歌もあったりして、お気に入りのサイトです。
この曲は『友よ歌おう』でしたっけ?だとしたら山内さんでしょうか?私の記憶では…玲子(姉)だったような…。たまたま歌ってただけだったのかなぁ?とにかく、ギターでたくさん練習したのは間違いないです^^


中学に入ったか入らなかったかぐらいの時で、前奏は曲の終わり部分の引用、間奏は出だしとサビのミックス。これが精いっぱいだったのを覚えています。指も届かないものが多くて、弦が『ポコッ』なんて音を良く出してましたw


黒人霊歌はとても良い曲が多いですが、彼ららしい教会は、ときどき私には怖かったりします。霊的なのか?感情にきやすいのか?わからないですけど^^;


私は彼らの曲ではKhumbayaが大好きです。



こうやって聞き比べても、2の方が聞きやすいです。好みの問題なのでしょうけど。でも、言うまでもありません。何を歌っているかが大事です。「主よ(神よ)、来てください。」「主よ(神よ)、すぐに来てください。」これを歌う歌を、私は好む傾向にあります^^


クリスチャンは「主を(神を)待ち望む者」です。また、「主を(神を)探す者」です。でもクリスチャンは皆言いますよね。「私は神を知っています。」「神は私といつも共にいます。」


待っているし、探しているのに知っている。共にいるとはどういう事なのでしょうか?これをクリスチャンでは無い人に理解するのは難しいですよね。「この人達は何を言ってるのか?」と怪訝な目で見つめ、首を傾げていた人はある日言います。「私は神を今知った!」「私は神に出会った!」「神は共にあった!」こういう事を言ってですね、「あぁ〜!主よ!来てください。」とも言います(笑)


クリスチャンにしかわからない、伝わらない表現は多くあります。




/bubble善悪と道徳




善悪の基準も、クリスチャン以外の人とは違います。前回このカテゴリーで、息子を殺された牧師がいる事を書きました。その犯人を養子にした牧師先生ですね。その息子を殺した犯人に、父親である牧師はどうしたのか?この部分の評価は、クリスチャンの目から見た評価と、そうでは無い人の評価とは違います。


そして、人々からの称賛がその牧師に集まるとするなら「やめてください。」と称賛する人々を制する。彼がそれをするなら、私達はその理由を理解できます。善悪や道徳の基準が違うからです。


「神無しには私から善いものは出ません。」これを認められる人は上記のようになります。また、「私は神を愛しているのだから、神の喜ぶ事をするのだ!」という意思を持って起こした行動であったなら、それは天に宝を積む行為のひとつであったりします。これも、クリスチャン以外の人には理解できませんよね。


彼を称賛する人ばかりではありません。「息子の無念を汲んでやるのが親だろう!」と責める人もいます。「まだ生きたかっただろうに」「まだやりたい事があっただろうに」亡くなった息子さんの気持ちを想って非難するのです。


彼を称賛するにしても避難するにしても、それは今という時代を生きている今の人の善悪の基準に立った評価と言葉なので、クリスチャンにはあまり意味が無い事になります。


「神は偏在である」。この言葉の意味は「神は時間にも場所にも拘束されず、いつでもどこでも変わらず自存しておられる」という意味です。「自存」とは、何にも頼らず、何の助けも無く、自力で存在できるという意味です。人のように酸素が無ければ、食べ物が無ければ、水が無ければという拘束も無いという事です。


クリスチャンは「そうせずにはいられない事」を抱えた生き物です。これはクリスチャンが抱えている大きな矛盾でもあります。


時代や地域による習慣、風習、道徳、美徳、こういう背景が動機となってする事です。ごはんを食べる時、両手を合わせていただきますと言う。これが習慣になっている人はそれをしないで食べるのはきっと気持ち悪いと思います。「女の子を虐めてはいけませんよ」という常識を持っている人にとって、女性に手をあげるなんて考えられない事です。


手を合わせて「いただきます」と言う人が100年後にも残っているでしょうか?300年後は?
では、その時代の男性が「女性に暴力なんてとんでもない!」と考えていた人はどれだけいるでしょうか?


人が考える善し悪しは、時や時代背景、環境や風習に左右されるのです。クリスチャンも当然その中にいますので、ついやっていまう事ややらずにいられない事のひとつにこれを抱えています。


もうひとつあります。それは「神の意志や想いを実現しようとする事」です。神は人の手が無くてもなんでもできます。神ですから。


けれど、神は別の誰かとつながる事がとても好きなようです^^


人は神の形に創造(造られた)されました。「さあ、我々に似せて、我々の形にかとどって人を造り…」これは、文法的なルールで『偉大な神』は複数形で表現する決まりがあるので、それに準じた表現です。出土される異教(多神教)の石板等でも、神々の中の一人を指して言う時にも『神の偉大さ』が備わっている場合は複数形で書かれています。けれど、神々の中の一人(単数形)の神について書いています。


けれども、この我々の中にもヒントがあります。「人は誰かとかかわらずには生きられない」ように造られた。神に似せて造られた人は、誰かと影響し合って生きています。神と人も、かかわりあって生きていく。交わりあって生きている。これを神は好むのです。


人が神の想いを実現しようとする事を神は喜びます。しかしそれは、結果として神の自己満足のためではなく、他の誰かや他の何かに善い影響をもたらす事です。


Khumbayaのように、何かを祈っている人、泣いている人、色々な人がいます。あそこに泣いている人がいる。それを神が心に留めて「誰か慰めに行ってやれないか?」と考えているとき「主よ、私が行きましょう」と言う人を喜びます。想いを実現するとはこういう事です。大きな事から小さな事までありますから、一例ですけど。


このような人が居なくても、神はそれを起こす事ができます。情け深い人が偶然知り合いになったり、通りかかったり、「あの時あの人に出会わなければ今の私は無かっただろう」と言える事は誰にでもあると思います。これらも一例です。


「神は人任せで何もしないのか?」と言うとそうではありません。その人の内にいて、その人と一緒に悲しみ、その人と一緒に痛んでいます。何故なら、その人の霊は神のものだからです。慰めを与えようとしても、その深い傷を癒そうとしても、その人が神を認めなければ「なんとかなってしまった」という経験を与えるだけです。それでは意味がありません。その状況になるまでの間、手を貸してくれた人との関係、その人自身が学ばなければならない事があるのです。だから「色々あったけどどうにかなるもんだよ」で済ませるのはあまりよろしくないのです。神は親と同じなので、教えたり諭す事をするのです。


神の想いを実現しようとする人生と、社会の道徳や習慣に合わせた善い事をしようとする人生もあり、どちらかに偏ると「変わり者」と呼ばれたり「あいつは悪だ」と言われたり非難が集まります。この狭間で、矛盾と戦いながら生きているのがクリスチャンです。


これもクリスチャンでなければ理解できません。このカテゴリに書いている事はそういう事ばかりです。



/bubble証印裁き




前回のこのカテゴリーの投稿で『復讐は主のもの』という事について触れました。これも、神は裁き主であるという前提あってこその話なのですが、クリスチャン以外の人には言葉なしには理解できないですよね。


一応、聖書を知らなくても『ヨハネの黙示録』に興味を持つ人はわりと多いと思います。あれは聖書を知っている人にわかるように書かれているので、聖書を知らない人には意味不明な事が多いと思いますが(苦笑)


そこに、神からの証印を与えられた人に害を与えてはならない。こういう内容の文章があります。


一般的な文章で表現すると、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを出るとき(出エジプト)、エジプトに起こったわざわいについて書かれています。その中に、門のかもいに羊の血を塗ったイスラエル人の家は通り過ぎたという記述があります。


ユダヤ道祖論が好きな人は、神社の鳥居はこれだ!と言う人がいるので、都市伝説好きな人はこの記述を知っているかもしれませんね。


キリストが十字架で流した血、それが、現代の羊の血の役割なんです。その血で自身を洗った者、それがクリスチャンです。それを証印と考えて害が無いと考えれば…ヨハネの黙示録のその部分が読み取れると思うのです。モーセのあの時…とすぐに頭に浮かぶ人は、黙示録を読み解きやすい事もわかるでしょうか?


さて、私はこの事とは別に『証印だな』と思った出来事があります。それは、「どのようにして彼等を赦す事ができるのか!」と、愚か者丸出しで神に言い逆らっていた頃です。私はバカで不出来なクリスチャンなので、よくこういう事をやるんです。だから…生きるのが大変な事が多いとも言えると言えば言える(汗)


それで何が起こったか?という部分ですね。私が語らないのに、私が証しないのに、私が伝えないのに、結局彼等は聖書の言葉、キリストについて、神について、これらを知る事になったという結果です。


それを見つめたとき、私は自分が神のものであり、子である事を自覚しました。同時に神を恐れました。ローマ書1章19〜の聖書箇所にも思いをはせました。


私が神にあれこれ言う前からそれは動いていた事を見つめなおしたとき、裁き主としての神の存在の大きさと、自分自身のあれこれの恐れも同時に心の中に併存していて…すごく複雑でした。


自分自身を愚かだったなぁとも思うし、今更どうしよう?とも考えたし、彼等について私がする事は何も無いと理解しました。『復讐は主のもの』も、その言葉だけを書くと、きっと独り歩きすると思うのですよ。例えば、旧約の神は怒りの神だとか復讐の神だとか言う人がいるでしょ?「おいおい!聖書をちゃんと読もうぜ!」と言ったところで、あれだけの文章を解説者無しに読むのは難しいと思いますよ(笑)読んでも頭に残った事がすべてですからね。私達のように最低でも年に1度全体を読破したりもしません。一生涯に1度、それもある部分だけを開く人ですら少ないのです。


クリスチャンがなんとなく日記のように書いている文章では、真意を表現する事すら難しい。やれやれ…と思います。


「私が彼らについて私がする必要はない」とは言っても…このままの状態で、このようにして出来上がった現状を抱えながらね。それを作った原因者が目の前にいる環境は私にとって不健全なんですよ。少しでも過去の思い出がフラッシュバックするような事があれば、何かしらの棘を持ちかねないのは私自身がよくわかっています。だから、近づくべきではないという思いも強いのです。


彼等については、私にとって果てしなく長い時間、それを言葉にもせず耐え続けた日々があります。それでもダメだった事が今の現状を作っています。それでもダメだった経験の上に成り立っている今の状況。もちろん私が望んだ状況なんて全然ありません。でも、この続きを生きなければならない。私にはこれが苦痛なんです。悲しみも同時にある。だから、少しでも同じような事を味わったり、その空気を察知しただけで、自分で抑えきれない感情が沸き上がってくる事が簡単に想像できるのです。


「頼むから近寄らないでくれ!」と考えるのは、私が傷つける事も、私が傷つく事も避ける方法のひとつなのです。神によっては最善策ではないかもしれないですけどね。


流行歌を聞いたときのように、この人の顔を見れば思い出すという事もあります。例えば、その時期このユーチューバーの動画をよく見ていたっけなぁという時間があれば、その当時何があったのかを感情と一緒に思い出すような事です。それを思い出したくないと避けたところで、インターネットを使えば、買い物に行けば、書店に行けば、あらゆるところで見る事になります。


いつもいつもフラッシュバックするような事は、心の傷が新鮮なうちは仕方が無いにしても…。ある程度何も感じないようになっても「あぁ。またか。」というような出来事が起きた場合にこれらの事象があると、感情に拍車をかけるんですよ。


私は日本人なので日本が大好きです。でも、やっぱり…一生日本で過ごす事は現実的なじゃないように考えています。

posted by Mako at 12:39| 一人じゃないよ