2020年11月19日

日記(共有も引用も中途半端な日)

  ペテロ書簡は、パウロ書簡よりも私にはスッと入ってきやすいです。



  「パウロよりペテロの方が好き」こういうところで好き嫌いを述べるべきでは無いけれども、私の中に長くこの意識があったせいかもしれません。
正直、パウロは大人になってからも苦手意識があります。ペテロはまっすぐな人で、他の弟子達にとって長男的存在であったにもかかわらず…失敗や躓きが多いという面で好感が持てる存在なのかもしれません。キリスト・イエスの信仰者が自身の姿を重ねやすいのです。



  一方パウロはキリスト教撲滅を目指して迫害し、捕らえ、奪い、殺す者達が出てきた信仰者という事もあって、失敗から生まれた人と言えます。こちらもまたペテロとは逆ですね。パウロの場合、もちろん失敗もあったのでしょうが、ユダヤ教のエリートという出自だけあって軌道修正が上手いのだと思います。神学や神とのかかわり方、神ありきでの対応の仕方、あらゆる知恵と知識に富んでいる人物といえます。これが、私にとっては厳しく厳格に思える部分があって、また丁寧に問題を解説しようとする部分が理屈っぽく感じてしまう部分があるのです。



  この事は『聖書とは何か?』という基本的な視線を忘れて聖書を開いてしまう事で解決します。しかし、それを時々見失って、物語のように人物像を追ってしまう事があるのです。



  昨晩『滂沱の涙』という言葉が頭に浮かびました。『滂沱(ぼうだ)』とは、ザァーと降り続く雨のような様を表現する単語です。ゲリラ豪雨のような雨ですね。なぜこの単語が浮かんだかと言えば、電話の相手が泣いていたからです。



  私は、彼女の電話に少々困っているのです。電話がウザイとか彼女が嫌いだというような理由ではありません。涙の理由を共有できないのです。どんなに話に耳を傾けてもサッパリその気持ちが理解できない。だから何を言えばよいのかわからないのです。



  彼女の涙は自転車を盗まれた事に始まります。彼女はその自転車を大変気に入っていたようで、また、亡くなったペットが生きている頃から乗っている物という思い入れや思い出があり、悲しくて仕方の無い様子でした。この時も滂沱の涙です。


  警察に盗難届を出した後は、数週間自転車を探して歩いて休日を潰したり、仕事の行き帰りにも自転車を探しながら遠回りしたりと、そのようにしながら過ごしていました。見つからない事でも滂沱の涙です。


  盗難保険があるのだからと私に勧められた彼女は新しい自転車を買いに行きました。そこから数週間で警察から「自転車見つかりました〜」と連絡が来ます。「見つかって良かった!」「自転車が帰ってきた!」と喜んで滂沱の涙。


  その自転車が帰ってきたからには手放したく無い彼女。けれど、自転車の盗難保険を使った後は、元の自転車を自転車屋に持っていかなければならない。結局手元を離れてしまうという理由でまた滂沱の涙。


  とりあえずこれで一件落着だろうと安堵していた私。で、昨晩電話が鳴り、「買い物に行ったらスーパーの自転車置き場にあの自転車があった〜!」とまた滂沱の涙です。「自転車屋さんが、解体して廃棄じゃなくて、誰かに売ったんだろうね〜。また会えて良かったね〜。」と言いはしたものの…なにせ自転車という物が相手なので、ずっと彼女の気持ちが私にはわからないのです。盗難中もお気に入りの自転車だから探すのでは無くて、自転車を心配して探すんですよ。迷子になって帰れないペットを探すような状態です。この頃には、私は既に彼女の感情についていけていない。だから、見かけて「自分のものでは無くなってしまった自転車」への複雑な思いを伝えられても全くわからない。



  頭の中では、『2度僕のもの』という森繫さんの歌を思い浮かべながら話を聞いている状態でした。




神が人に救い主であるキリストを世におくった事の思いとリンクするストーリーを森繫さんが歌にしたものです。
ギター上手いなんて感想はそのうちしようw




  話がそれましたが、彼女が自転車の事で泣くのはきっかけのひとつだと思うのです。過去の後悔と未来の不安との間に挟まれている事は、話をしながら感じ取りました。


  彼女は、子供の頃『教会学校』に通った事があります。おそらく7歳か8歳ですね。それだけで「私クリスチャンだよ」と言うのがちょっと微妙なんですけど(笑)神仏も信仰対象ですし、仏壇を持たなくても、死んだ者の写真に(身内やペット)に食べ物や飲み物をあげたりしている状態ですしね。Christianの定義は、洗礼で区切る人もいますが、私は『信仰告白』これにつきると思います。何故なら、聖霊の働き無しにそこには到達しないからです。そして、聖霊を受ける為にはイエスをキリストをキリストであり生ける神の子として信じる必要があります。そこがクリスチャンの分かれ目です。



  とにかく、彼女がそう言うのでTペテロ5章の事を考えながら少し話そうと思いました。




  ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。


  あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。




  6〜7の引用ですが、7は誰にでもわかる内容ですが、6は違いますよね。聖書がわからない、キリストが、神がわからない人とクリスチャンとでは若干受け取る意味に違いがある部分です。



  そこでルカ12章を思い浮かべました。




  だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。


  いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。


  烏のことを考えてみなさい。捲きもせず、借り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。


  あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。


  こんな小さなことでさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。



  ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織もしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした。


  しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。


  ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。




  あぁ、信仰の薄い人たち。


  何を食べたら良いか、何を飲んだら良いか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。


  これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。




-長いので略-



  『この世の異邦人』。異教徒や、偶像や死者を拝む者・信仰する者…上げればきりがありませんが、ひとことで言うならば、天地万物の造り主である神(父)を認めない者すべてですね。下線部分を引用しながら簡単に聖書に触れておきました。



  気持ちがわからないので中途半端な言葉しか語り掛ける事ができず、また、クリスチャンという部分の一致が無く、聖書の引用も中途半端。なんだかモヤッとする会話でした。



  彼女は「私は変わりたいの」と言っていた。自分を変えるってどういう事だろう?クリスチャン達はずっとそれを考えていると思う。けれども結局のところ、自分を変える事ができるのは神の御手によると繰り返し学習する。



  とりあえず…。また教会に行ってみたら?とお勧めしておいた。それもまた第一歩になるかもしれないと考えたから。良い扉が開かれるように祈るつもりが、自分の事すらも祈る事をせずグーグー寝てしまった(苦笑)


  寝る前と目覚めのときこそ、祈りの時間を持つのに良いタイミングなのにね。睡魔が神になってしまった。



posted by Mako at 08:52| 一人じゃないよ