2021年01月14日

イザヤを想う



もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。
しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。

ヨハネ15:22






クリスチャンが存在するところでは、神のことばが何かしらの形で語られる事になります。未来を予知する者を預言者と定義している人は多いです。でも違います。『神の言葉を預かる者』こそが預言者です。
未来を予知する者は、予見者です。これは聖霊が与える賜物のひとつでもあります。
聖書に残されるような預言者達は、聖霊に満ち満ちているので予見もできます。しかしそうではなくて『神が予め告げた事』が後々起こるという事で預かっている言葉の語り手なのです。

そういう事ですから、真のクリスチャンは預言者の1人でもあると言えます。私が前回書いた事象について、私の愚かさを露呈するわけですが… 私が意図してもしなくても、私が語っても語らなくても、神の言葉が色々な面で届けられました。私以外の人にです。

ある者は聖書の引用によって。ある者は賛美を聞く事によって。ある者は文章によって。ある者は聞く事によって。方法は様々です。
この事について私が愚かであった事の説明をするとこうです。

私が語るべき事を語らないので。
私が告げるべき事を告げないので。
私が証すべき事を証しないので。

これらが揃って、キリストがそれをしたという事です。

キリスト教弾圧や迫害は、ユダヤのイスラエルから始まりました。イエスを主(しゅ)と告白する者を、捕らえ、打ち、殺し、奪っていました。その仲間の中にパウロがいたのです。
同じ過ちをしている人物や、それに1番近い人。パウロの場合は近い人物で、これから本格的に同じになるところだったと私は考えますが。
そこから1人を選んで、その人達に神の言葉を届ける者とする。これは割と良くある神の動きなのかなぁと思います。



「荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」"

ルカの福音書 3章



ヨハネについて記されたルカの箇所です。イザヤ預言が成就した事の引用ですね。

この光栄に私は預かる事ができなかったという理由で愚かです。主の為に道を備える光栄を自ら逃してしまったのです。
語らない事。告げない事。証しない事によってです。

学識のある学者が集まる場所ではなく、立派な宮殿ではなく、善人と呼ばれる人がいる場所でも無い。『荒野』で。ここに私は注目したいのです。肥えた土地ではなく、潤った地でもない。荒野です。
私達のイエスが訪ねて歩いたのは、善人や道徳的に優れている者ではありません。罪人の頭と呼ばれる、現代の私で言えば反社的人物や、病で死を待つだけの人々、悪に支配された凶暴な人のところへです。
それもまた荒野と言えます。

私もまた、色々な事があって荒野にいたわけですが…
ことごとく神に逆らって駄々をこねて何もしなかったと言う事ができます。

主の通られる道筋を真っ直ぐにする事の光栄は、イザヤのようでなければ得られません。



「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」



こう言えなければ得られません。イザヤはキリスト降誕のときも、世の終わりに向かっても、無視できないほど重要な神の預言を残す者になりました。




まぁ。なんていうか。
後悔はたっぷりしている。そういう事です。
posted by Mako at 14:09| 一人じゃないよ