第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。
その星には底知れぬ穴を開く鍵が与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、態様も雲の、この穴の煙によって暗くなった。
その煙の中から、いなごが地上に出てきた。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
ヨハネ黙示録9章です。
この星を、クリスチャン達はサタンと読みます。それは他の聖書箇所のいくつかが根拠です。
星に鍵が与えられた。
イタリア語では 『 Gli fu data la chiave per pozzo dell'Abisso. 』となります。最初の 『Gli』ですが、これはイタリア語の補語人称代名詞で『彼に』に該当します。日本語で『その星に』と訳されていますが、これも間違いではありません。
主語は星ですので、『それ』と訳して問題無いわけです。というより、『星に与えられた』のだから、『それ』と訳す方が文章的には自然です。
聖書を読むのに、一応『預言文学』や『黙示文学』という学術的アプローチもあるのですが、新旧どちらの聖書を見ても、これは『彼』を象徴している事がわかります。
いえ、そもそも彼等という大きな枠から焦点を絞ったひとつという方が良いのかもしれません。
広角レンズで星を象徴するものを見て、さらにズームする事で『天から落ちた星』が何かわかるという事ですね。
そしてこの聖書箇所は時空の動きが、読み手とヨハネとでズレが生じている箇所とも言えます。
この鍵がされていた穴について、アブソスとタータラスの区別をして解説する教師達が多くいます。どちらにしろ、そこから出てくるのは死に一番近い霊達である事は間違いありません。
近頃、アニメも、映画も、色々な行事についても、『魔』『霊』『呪』が多いなぁと感じるのですよ。『魔』は、悪魔だけでなくて魔術も当然含みます。『霊』は心霊の他に、占い系が混ざってきます。『呪』は術を含みます。
この類が増えたなぁと感じると、私はこの聖書箇所が頭に浮かびます。
近いのかなぁ?とか、準備段階なのかなぁ?とか、既に開き始めているのではないか?とかね。
お笑い芸人だけだって、心霊系のユーチューブチャンネルがあり、その数も毎年増え、再生数も増えているようです。
死に近いものを、世界のどこかで、四六時中気にしている状況というわけです。そして、SNSには死にたいという人が増えています。
時々勘違いされるのですが、私は『オカルト否定派』では無いのです。いえ、否定は拒否すべきという意味で否定派ですが、それが無いとは言わないという事です。
キリスト教がユダヤ教から分派する以前から、聖書の神、創造主を信じる者達はそれと戦ってきたのです。
「聖書の神を『慈愛の神』だとか『赦しの神』だというわりには、聖書の神は多くの人を殺しているじゃないか」という意見をよく見かけます。そうです。それがその証拠なのです。
代表的なソドムとゴモラを始め、赦されず裁きにあった街々、都市は一体なんだったのでしょうか?失われた古代文明と、人々を魅了するロマンあふれるそれは何故滅びたのでしょうか?
そこを深堀する必要があります。
都市伝説好きの人が大好きな『考察』を加えるべき部分です。
それらがあらかた片付いてからキリスト降誕が起こります。それまでは起こりません。
この時間が長きに渡ったのは、人間への神の憐れみの為です。1人でも多くを滅びから救う為です。
「愛の神だというなら、なぜ地獄を作ったのだ?」という答えもこれと関係があります。人がそこに入る事は本来の目的では無いものと考えるのが自然だと思います。
幽霊って何?その答えは、私達人間が考えているそれでは無いよと私は言います。
私達の知っている、死んだ友人や親類、家族、昔生きていた誰かでは無いという事になります。
神が『命の父』と呼ばれる一方で、サタンは『偽りの父』と呼ばれます。彼等も、彼が従える悪霊も、最初から嘘つきなのです。
残念ながら、他の人の肉眼では見えない物を見る人は存在します。深く述べるとなると時間を割かれるので、簡単にだけ言っておきます。
サタンも、それに従う霊達も嘘つきで人殺しです。だから、その見えるものに頼ってはいけない。信じてはいけない。これだけははっきりしています。
見えていないのに見えているふりをしている人もいますが、見えている人の方が厄介です。その人自身がそれを一番理解しない立場にあるからです。
『霊感』『霊能力』こういったものを看板にすれば、世から金がまわってくる。この金を得ている偽物なんて罪の重さで言えば軽いかもしれません。その逆の方が怖いのです。しかも、本人が善だと思っている事が問題なのです。
それは、もしかしたらですが、最近生まれた赤子が死ぬまでには理解できるような世になっているかもしれません。その日はきっと遠くはないからです。
さて、話を戻して…。
SNSでも、情報やまとめの類も、映像も、アニメも、物語も、どこを見ても増えているそれらは、『死』を意識する人の現れのように思うのです。
世界が滅んだらと考えると怖いけど、この類の話はついクリックしてしまうみたいなものです。
どうなるかわからない不安が背中を押しているのだと思うのです。
少しでも『死後』について知っておきたいのではないでしょうか?でも、それが見えると言っている人の言葉をうのみにしても、それはその見えるはずの人の見解であって、自分の経験や理解ではありません。
信じるか信じないかという2択であり、宗教と同じです。
聖書的に『死後』の世界観を見るならば、『人は死んで天国へ』は、間違いではありませんが、正しいとも言い切れません。何故なら続きがあるからです。
もちろん輪廻転生のようなことが待っているわけではありませんよ。
世とその支配者の滅びから救われた人は死を見ません。いえ、ある時期までは肉体は死ぬ定めの中にあります。ですから、今現在生きている人は『死んだら天国へ』の発想があっても良いのかもしれませんね。
滅びは裁きのときでもあるのですが、その裁きから救われた人は、死んでも生きるのです。
最終的にどこで生きる事になるのでしょうか?おそらく、この地上です。私達が生きているこの地上です。
その時代の人が自己紹介をするらならば「死んだ事はあるが生きています」と言うかもしれません。
今起こっている事と黙示録の聖書預言。また、旧約聖書にある終末預言を読み解くのは面白いと思いますよ。
「なぜ?」がひとつづつ解けていく。こんな探求もときには楽しいものです。