2019年11月25日

タイトルは『日記』だね

「もう、いいんじゃないの?そんな労力使わなくたって…」
こう言われて、心のどこかで「それもそうかもな」って思った。

何度も彼女にさようならを告げるつもりはない。双方に、これ以上この事で傷つかないために。

もう私は、この事につきあいたくないし、早く天に召されたいとばかり願ってる。

みんな好き勝手言うし、それも面倒臭い。




ある人の母親と姉、母親の妹が、そのある人の為に…
まぁ、いつもいつも私を攻撃したが…
そのある人の言い分を一方的に信じた為だった。

私も私で、そのある人の為に、何を言われても、虐められても、気にしない素振りで頑張った。
そのある人が恥ずかしい思いをしない為に。
誰よりも早く起きて、誰よりも寒くて冷たいキッチンに立ってた。
他の女性達は、最初の彼女達を除いては早朝には起きて来ない。

妹さんが言った。「ちゃんとやってるじゃないの」
ある人が言った。「よく思われようと思ってしてるだけ。」

泣きそうになったけれど、家に帰って1人になるまで泣かないって思った。
1人になって泣く事はできたけど、泣けばバレるしそれが悔しかった。




私は…
彼女に良く思われたいだけなんだろうか?
今、人にはそうとしか見えない事について考えてみると…
彼女もそう思うかもしれないなぁ。と思うの。

何もできなくてただ聞くだけなのに、できる事をと思えば押し付けになるだけなのに。

彼女に彼の事を悪く思って欲しくないと考えるとき、私の中になんとも言えないモヤモヤしたものが心の奥底にある。
その時出る言葉は、悪く思ってはいけない。嫌いになってはいけない。信じなくちゃ。そうやっていちいち自分に言い聞かせていた言葉からピックアップしているような…そんな言葉が並ぶから。

そのひとつひとつの結末を、私は良く知っている。
だから、それが良い事だとも思えない。
でも私はそうしている。
それで私は考える。「私は彼女に良く思われたいだけじゃないの?」
そして、彼女にもそう見えてるんじゃ無いのかと不安になる。

別の人ならともかく、彼女は私には特別だ。
だから考えなくても良い事を考えてしまう。

ヘラってるって言葉は好きじゃないけど、完全にヘラってる。

そこに「もういいんじゃないの?」と、別の彼女が言った言葉が「そうかもな」と私の考えや気持ちを、漬物石のように押し始めた。

大丈夫。私はイエス様の民。神の子だ。
だから、彼女にとって特別な彼をモヤモヤした気持ちを持って召される事は無い。
でも、その瞬間がいつかわかるなら…その瞬間まで思い出したくはない。

私は、私にとって彼女が特別なように、彼女にとって特別な彼を嫌いになりたくは無かった。でもあまりにも時間が経ち過ぎてしまった。酷い状態のままで。
それは、私と神ともたくさん喧嘩させた。




けれど…
私はひとつ知っている事がある。
人が自分を攻め立てたり、陥れたりする時は、実は気が済むまでやるがままにさせておく方が良いという事。
来るべきその日の為に受けるままにしておくのが良い。
これは真理です。

でも、おこちゃまが大人の話を理解できないぐらいに、飲み込むのが難しい真理だ。
えーっと…
私がそれをチビチビ飲んでは吐き出している状態なのでうまく言えないんだけれども…
実はその時の為に恵が始まっているという事なのよ。

私には父がある。偉大な父だ。
だから、恐れたりはしないけれども…疲れている。
そして恐れるべき方を恐れる事も忘れる。

私はこう祈りますね。
お父さま。この事で誰も責められる事がありませんように。
ただ、余分に打った者と、余分に回収した者から、それを取り上げて下さい。
その分を彼女への恵みとして、風を起こして下さい。
彼女に風が吹き抜け、世の霞ではなく、ハッキリと見るべきものが見えますように。
彼女と安らかに憩えるなら、私は何もいらない。
誰の悪も罪も見ない。
私はずっと、十字架の立つそのところで泣いています。
posted by Mako at 23:34| 一人じゃないよ

時代と戒めで思った事

人生で1番許せない人。これがいるのは不幸な事です。
許せない理由がたくさんあって、許す理由も見つかりません。
例えば、帰宅途中で殺されてしまった子供の親。
犯人を許す理由も無いし、そんな事を考える必要もない。

「あなたは犯人を許すべきだ」という人が現れたら、言われた人だけでなく、聞いている人も起こりだすと思う。

それをしなさいと聖書に書いてあるのは、無理難題を人に言っているのではないと思うのよ。

人が人を許すのは難しい。実は神も同じなんです。
神は本質上それと共存できません。
字は変わりますが、それでも神は人を赦すのです。
神は聖であるので、人よりももっと赦せない方です。
だからイエス・キリストを世に送りました。

クリスチャンは、なんの代価も無しに、ただ恵みによって受けたものは、代価無しに流していきます。
受けた分を忘れて人を断罪する事は罪だからです。

しかし、この苦い水を飲めるようになるには、信仰と経験と御言葉と祈りと、多くの事が必要です。
そして、自分の力や信仰の深さでやろうとして失敗を繰り返すものです。

私はできない自分をキリストの前に裸で持っていくだけで良い事を知るまでに時間がかかりました。
神からの命令を、自分の信仰の力量でしなければならないと勘違いしていたのです。
私が自分でできる事など何もない事から始めなければならない。
私はこの事で、多くの事を主なる神からまなびました。
子供をよくわからせるように、ひとつずつ、私の自我にも付き合って、忍耐して教えてくださいました。

できる事はただ恵みにより、受ける事もただ恵みによります。




姦淫について、また同性愛について、時代に合わないというような意見がありますが、やっぱり本質を考えるべきです。

天地万物が造られ、人に多くの事が委ねられました。
草木、空を飛ぶ生き物、地に住む動物や虫達、水中を泳ぐ魚…
そして人…

神は命を繋ぐものを造りこの世に置かれました。
私達が生きるこの環境の何かが1%の狂いもなく、生きる為に動いている仕組みは、命を繋ぐ為です。
命を繋ぐ事は聖なのです。
聖を欲望で汚してはいけないと神が言ったのには必ず理由があります。

私も、教師達も、熟したクリスチャンさえ見えていない事まであります。

聖書は「生きよ、死んではいけない」と言っています。
命の親、霊の親は神です。それを受ける行為は愛を深める行為でもあります。
人の子が命を持って生まれ出る場所には愛があるべきだからです。
何故なら『神は愛』だからです。

姦淫は受け継いで行く財産も健康も害し、家族を破壊します。
親が性病を持てば、子は生まれながらにして性病持ちになる事もあります。いえ、感染せずに済めばラッキーなのです。
性病は症状が治ればというものではありません。
感染したら持ち続けるものもあります。

未来の夫や妻、子に感染するリスクを犯してまで身を汚す事は愛でしょうか?
神は性行為をするなとは言っていません。
ですから子をつくるためだけにあるのではありません。
結び合わされてひとつとされたカップルだけにゆるしているのです。
それは正しい相手と愛によって行われるべき行為だからです。

時代は無関係です。
そのような時代だからこそ、クリスチャンにはそれをきよく保って欲しいと願っているのではないでしょうか?

自分の願いはぶつけても、神の願いには無頓着になりがちです。
人が人を赦すのは難しい。神にとってはもっと難しい。けれど赦すのは、人に生きて欲しいからです。
新しいパートナーができるたびにそのような行為をするのは、神の前に死んだ行いなのでは?

神が人にそれをしないように言う事のほとんど(全てと言って良いと思う)は、神のためでは無く人の為です。
安息日と無関係な人々ですら、最低でも週に1度は休もうとします。
現代ではそんな必要は無いと言えるでしょうか?
昔も今も、人には休日が必要なら、姦淫は時代に影響されるでしょうか?
posted by Mako at 00:04| 一人じゃないよ

2019年11月23日

日記

色々考えているんだけど。

今日私が書いた別投稿は極端な書き方をしているけど、要所要所ポイントを掴んでいるとは思うの。

あの家のリビングのガラス戸は、普通に閉めるのではダメだった。私が蹴られた時、あの窓まで飛んで、その衝撃でフレームが歪んだからだ。
「私ここで何してるのかなぁ?」なんて事は、状況に慣れ過ぎて考えなくなっていたけれど…うーん…
私が思うに、嫌な事や辛い事に慣れる事は無かったなぁ。
いつも心が痛かったし、いつも疲れていたし、いつも苦しかった。
私を責める人の人数が増えるたびに、そんな人だけがいる場所に連れて行かれる度に、私は私の居場所を作るべきだと思った。

受け入れられないところで受け入れられる努力をする意味がわからなかった。だって、私の夢とはまるで逆だもの。
あの頃は「夢は叶えるためにある」って信じてた。今は「夢は見るためにある幻想でしか無い」と思っている。

変わらない考えは「相手と向き合えない人に何を言う権利も資格もない」と。その考え方は変わらない。

ちゃんと私と個人的な関係を持っていない人に私の事はわからない。
あれこれ試されて「こんな風に辛い思いをさせれば本心が出るに違いない」と、多数で締め上げられても、それはそうする事によって作られた新しいものでしかない。




人と人の相性って難しいよね。
「私の夢や願いが叶った時、そこに一緒にいて欲しい」と考えたから我慢した事は全て逆に作用したし、未来にも明日にも絶対にいて欲しくない存在になる。
もしかしたら、その中の誰かの夢を叶える人になれたかもしれないのに、一方的に蹂躙して破壊するだけの人にもなれる。

そうして離れて行った友はもう戻らないよ。いや、マジで。




「私は悪くない」とか「私は間違っていない」と言い切る人が、私は昔から好きではないの。
それは「私は愚かで馬鹿です」っと言っているように聞こえちゃうし見えちゃうの。

100%自分が正しい事なんてまず有り得ないし、そんな話は存在しない。
だからと言って何をしても良いわけでもない。
そんな事をすれば「私は悪くない」も「自分は間違っていない」も、自分の言動が否定する。
よくアンチ気質の人達が「自分が悪いんだ!」と言って相手を攻撃してるでしょ?
この国は私刑も自己救済も禁止されてる。それは絶対に動かない事。

100歩譲って、それだけの仕打ちをその人が受けるべきだとして…
そうだなぁ。親族の住所を晒したり、勤務先や取引先に迷惑をかける行動は「自分が悪いんだ!」の範囲外なのよ。
例えば対象者の親族に「おまえの晒し行為で被害を被った!」と責任追及されたら返す言葉なんて認められないのよ。
「あいつが悪いんだ。だからやったんだ」という感情や言い訳に、その親族は無関係なのよ。
迷惑がかかった会社が、それによって大切な商談を逃してしまったら?
やっぱり「あいつが悪いんだうんぬんかんぬん」なんて何の役にも立たないのよ。
正当な手段で責任追及されたらマシだけど、「おまえが悪いんだ!だからこうされて当然!」を同じように返されたらどうするの?
自分が先に仕掛けたマイルールでしょ?人に助けを求めるのは間違ってるし、自分で良しとしたルールだもの。従うべきって事になる。
「あいつが悪いんだ」と他に飛び火しても、受け入れるしかない。自分は人にそれをしたのだから。

そしてまた「悪いのはあいつだ」と火の粉を被った別の人が…

だから、私刑も自己救済も禁止されてる。




パウロの言うように、悪を持って悪に報いずは正しいと思うの。キリが無いし。自分の心を他人のエゴの為に汚していたくもないし。

私は私が良い子だったからクリスチャンになったのでは無いという原点がある。私には正しさも聖さも無く、不誠実で愚か者だったからクリスチャンになった。
そういうわけだから、私が神から受けた分は返す。
誰も罪に定めないし責任追及もしない。
でも、間違いを間違いのまま背負えるほど強くない。

私だって…
あの恋した時、毎日楽しかったようにごく普通の事を味わいたい。
色々な人と色々な思いを共有したいし、色々な思い出を残したい。
私と山に行きたい人と山に行く方が、わざわざ私じゃなくてもいいのにそうしてやってると思っている人と海に行くより良い。山より海の方が好きでも。

その方が、後で思い出した時に良い思い出になる。
もし海に行ったなら惨めさと後悔だけが残る。
それなら他にやりたい事があったと、もし行かなければどんな事ができたかを考えてしまう。

人がどう思おうと、どう評価しようと、考えを変えて後悔と惨めさだけを味わう意味のない日々は嫌なのよ。

海で溺れているのが私だったら「このまま死んでしまいたい」と考えるだろうし、
一緒に行った誰かが溺れていたら、心の底ではホッとする自分がいるかもしれない。
もしホッとしたら、その罪悪感とも付き合って行かなくちゃならない。




自分の為に生きられない毎日って、いつも持つべきじゃない感情や思いが心の中心にあって…
イエスさまに逆らっているように思うの。
この思いが自分でコントロールできない事は肉であり罪だと自分を責め立てた日々も長かった。
でも、私は知ってる。キリストが勝利者である事を。
私はキリストの花嫁なので、花婿を信じていますとも!
だって、彼は私を裏切った事も、傷つけた事も無い。

posted by Mako at 22:23| 一人じゃないよ