2020年10月20日

流布された嘘

オカルト系海外ドラマから、少し聖書の事について触れたので関連話を書こうと思います。




サタニスト系列の枝のひとつ。『カイン派』の名前を出しました。カインとアベルのカインで、欧米でいはケィナイズなんて発音されたりしています。

カイン派のルーツが無ければ、グノーシスや結社なんて物も存在していない社会になっていたかも?しれない?と言い切る事ができないけれど、その可能性はかなり高いんじゃないかと思います。

さて、彼等が流布した大きな嘘の一部について、今回は書いておこうと思います。




人が創造物を見る目



創造物と創造主の事を万民にわかりやすく言葉にするのは大変難しいです。私には。それに見合った賜物を受けている方がいるので、彼等の方が、きっとわかりやすく言葉に変えられるのだと思います。
下手くそながら…という前提を先に言い訳がましく書いてから書き進めましょう(笑)

初日の出が見たい。そう考えて山に登った事ありますか?
大自然の中で過ごしたい。そう考えて自然の中にテントをはった事はありますか?
飛行機から大地を見下ろした事がありますか?
陸が見えないほどの海の上から、海の青さを見た事がありますか?

誰もが「素晴らしい!!!」と感じると思います。自然の大きさにも感動し、自分がちっぽけな存在であるかのように感じると思います。
中には、この自然を創った神がいるとすれば…と仮定をして、その出来栄えを称賛するような方もいるでしょう。宇宙飛行士なんかにいたりしますよね。

これが神の創造物である。

ひとことで言ってしまえばそうなのですが、忘れているものがありますよね。
あなたと私、彼と彼女、あの人やこの人達です。
その自然の中に一人、また一人と置かれてこそ完全な美しい創造物の世界なのです。どれが欠けてたとしても、神はそれで満足しないのです。
動物だけでもだめ。昆虫だけでもだめ。大自然、大宇宙、その中のこの星、地球の中には人が居なければならないのです。

大自然を見ながら、宇宙の大きさを見ながら、とにかく、他の創造物を見ながら「これらを造られた神は素晴らしい!」と第三者目線で傍観してしまう事が多いのですが、あなたが、私が、彼や彼女らがそこにいる事が素晴らしいのです。

本来はそれが正しい創造物の存在です。

人は人が評価するであろう自分の価値を推し量ります。しかし聖書は言います。神の目から見ればあなたは素晴らしと。聖書の価値観に立って世の中を見るならば、人が決める自分への価値のようなものは、わりと取るに足らないくだらないものになっていきます。
しかし、聖書の言う価値基準に合った目で世の中を見る事ができたとしても、世の中の一部として生きている以上折り合いをつけなければなりません。
クリスチャン達の苦悩のひとつかもしれませんね。ここは。

星空を見上げたとき、夕日を眺めているとき、大きな海と戯れたとき、色々なシーンで自分以外の神の創造物と触れる事になります。けれど、自分自身が神の創造物であるという目線も必要なのです。




大きな嘘の源流



大きな嘘を流布した彼等は、結果創世記に戻ります。創世記を変えてしまうような論を流布するか、キリストを否定する書物や論に没頭している場合が多いです。でも、まぁ、カイン派のカインは、創世記に登場するカインとアベルのカインですからね。やっぱり創世記が重要なんです。彼等にとっては。

カインとアベルは、エデンの園を出る事になったアダムとエバの子供です。やがて、ノアの大洪水を生き延びるか生き延びないかを分別するラインの主軸となります。

彼等の大きな嘘は、これより前の天地創造から始まるのですが…
今回の焦点はそこではありません。

蛇に惑わされて禁断の木の実を食べてしまったエバ、妻にすすめられて一緒に食べた夫のアダム。ここら辺の事になります。

オカルト系海外ドラマから、少し聖書の事について触れた前投稿にも書きました。
サタンの手口のひとつ。良い物であるかのように見せて惑わせる。これが聖書に初めて登場する箇所になります。

前記事に書いたものを繰り返すと、『平和の美しさ』を追い求めたら『平和のためと言って戦争をしていた』というような事になります。
『正義』を守り通す為に『不正』を行うようなものです。良い事であると信じた事が正反対の結果をもたらす。これがサタンの上等手口です。エバは、良い物に見えたので食べたのです。夫(他の人にも)勧めたのです。

これを現代風に置き換えれば…
自己啓発や、自己を高める系スピリチュアルのようなものかもしれません。

エバにとって良い物に見えたのは自己啓発のようなものだった。私は今そう言い換えます。けれど、これは例えのひとつであって事実ではありません。

「自分を信じる」
「自分で選ぶ」
「自分で決める」
=素晴らしいじゃないか!

こんな感じです。

こうして羅列すると、まるでこれらが無かったかのように思えませんか?これが彼等が流布した大きな嘘の部分になります。
これらはそもそも人に備わっていたのです。現に、それが備わっていたから惑わされた人間はそれを取って食べたのです。備わっていなかったらそれを手に取って食べる事はありません。

創世記を今引用はしませんが、『食べてはならない』と言われていた木の実を『それに触ってもいけない』と蛇に説明しています。食べない事も自由のひとつである。この事を忘れて、自分を縛る材料にしていたのだろうと思います。




木の実の正体



善悪を知る知識の実と呼ばれる禁断の木の実ですが、これの正体はなんでしょうか?もちろんリンゴではありませんよね(笑)

人生から神を排除する事です。それが木の実の正体です。

「神ではなくて自分を信じる」
「神を無視して自分で選ぶ」
「神を排除して自分で決める」

その結果が現在まで続く人間社会という事になります。

いつの時代も飢えや戦いがあり、いつの時代も貧富があり、いつの時代も権力者とそれに支配される側があります。
「神がいるならこんな事をゆるすわけがない!」と言うのは、神を排除して生きることを選んだ人間が、都合の良い部分だけは神の介入を求める発言をしているようなものです。

神は、人間にとっては命の親です。『父よ』と呼ばれるその理由はここにあります。
神は命の源ですから、排除すれば死を経験します。
人間が生まれた日からつきまとう呪い。それが死です。

若くても死にます。年老いても死にます。良い人も死にます。悪人も死にます。
長生きするために努力を重ねていても、事故や火災でも死にます。

地上を治めるべき人間に死が入り込んだので、治められる側の大地や自然にも当然その呪いが入りました。
だから、自然も人に牙をむいてきます。これが理由で死ぬ事もあります。




大きな嘘は自由だった事を不自由だったに変えた事



エバが良い物のように思えたので取って食べた。その惑わしは現在でも続いています。

それは不自由さを与えるためでは無くて、自由に生きさせる為のものだったという真実が逆転している事です。
神が人の自由を奪っていたとか、制限しているかのように思わせている事。その嘘の流布が現在でも続いています。

エデンの園の話は、実際に木が植わっていたとか実をつけていたという話ではありません。人の考え方ひとつで、その木は誰の内側にも生えるのです。大きく育つし、育てば実をつけます。そして熟して良いころ合いになると、人はそれを手に取って食べるのです。
それを手に取って食べてしまうまで、人はそれが良い物か悪い物かを正確に知る事ができません。

『平和』を追い求めたらいつの間にか『平和のため』と言って戦争をしていた。これは良い物に見える『平和』と呼ぶにふさわしい木が、自分達の内でどんどん育ち、やがて実をつけたのです。熟したので食べた結果、その正体がわかるというやつです。

「『平和』は素晴らしいものだ。みんなで『平和』を実現しようじゃないか!」こうして、良い物は人に勧めるでしょ?子供にも夫や妻にも、友人にも分け与えるでしょ?
神はその実を食べた結果を知っています。だから、それは食べないようにと言ったのです。
火傷をするから鍋にさわっちゃダメと言っている親と、触った結果を知らずに鍋に近づく子供のようなものに例えるとわかりやすいかもしれないですよね。

『親の心子知らず』状態で、うるさい親を排除するようなものです。

神は予め人に教えておきました。「それを食べたら死ぬ」と。
聖書に書かれている事も、クリスチャンにとってはこれです。予め言われていた事が詰まっているのです。まぁ、後に来る事に備えてですが。




本来から人は不自由では無くて自由人



人は奴隷として創られたのではありません。選択も意思決定も自由に行えるように創られたのです。
それを、奴隷状態に置かれていたかのような嘘を混ぜたのが、カイン派を代表する、もうひとつの写本群を信じる人達です。

もし、彼等の言う通り不自由で、神に支配された状況であったとすれば、現在でもその状況下に人がいるはずです。
それを取って食べる事はできないように創られている事になります。自由に選べるように創られた自由人だからこそ、その惑わしに乗ったのです。

エバもアダムも、それぞれで良く話し合って決める事もできましたし、神に相談する事もできました。神と直接交わりを持っていたのですから。
その決定に、その選択に他人は入らない。これは、神が人が裸である事を隠してくれたので、たして痛みを感じない事のように私には思えるのですが…

今日のところはここまでで終了しますわ。




全然関係ない話なんですけどね。久しぶりに玄米を炊いたんですよ。
美味しかったのは美味しかったですが… ふっくら炊く事ばかりを意識して炊いてしまったので、ぷちぷち触感が皆無でした。
玄米ご飯て食べるなら、多少のぷちぷち感大事よね〜。
今回はフライパンで炊いちゃったのですが、そういう加減が難しいっすわぁ。
posted by Mako at 22:03| 一人じゃないよ

2020年10月17日

ぶつぶつとつぶやきながら日記

どう考えても手違い送信のDMが…
誰と間違えたのか?タップし間違えたのか?よくわからないけど、既読にしないままにしておいてあげる事にした。
通知で前半少ししてこっちも見てないし。
イベントなのかビジネスなのかよくわからんけど込み入った内容っぽかったのよ。




100円ショップの毛糸って使えるの?ってな感じの内容を書いたのよ。

昔の話だからね。
お父さんはビジネスシーンでセーターやベストを着る。だから真新しい毛糸で編んだものを着る。
着古したものは子供達のセーターやカーディガンに編みなおされ、最終的には靴下や毛糸のパンツ、あるいはお父さんの腹巻として戻ったりする。

質の良い毛糸はリメイクして使うようになっていた昭和時代。そんな事を書いた。

でね…。そこで考えるわけ。

ブランドってさ、基本これなのよね。もともとは。
良い物を長く使う。だからブランドを買う。

ずっと止まらない時計。
壊れない旅行鞄。
やぶけないスーツ。
…etc。

でも、すっかり内容が変わってしまって、2年落ちなんて持てない&着られないなんて成金意識がね(笑)
そういう消費者がブランドの存在価値を変えてしまったと思う事があるの。

つまりあれよね。いわゆる消費する為の奴隷ってやつ。

『生きるために毎日同じ事を繰り返して労働し続ける人生』に人生の意味が見いだせないなんてよく言うでしょ?
消費する奴隷ループから抜け出せるだけで、多少のゆとりが出そうなのにね。人って消費をやめられない生き物なのかもしれないよね。




思春期のクリスチャン達が陥りやすいのも、この消費奴隷状態かもしれない。

流行に沿った服、皆が持っているゲームやスマホ…etc

サタンが人間に用意した価値観や世界観はすべてが奴隷状態だと思うのよ。
それを手にしたからと言っても、満足できるのは一時的な欲求だけで何の役にも立たないものばかり。

「便利だから」という落とし穴もさ。ラクをした分人の能力や才能って衰えるからねぇ。便利だから良いという物でも無いのに、それに夢中になってしまう。
便利は悪いものではない。例えば洗濯機や冷蔵庫が無かったら?この二つが無いだけで絶対に専業主婦が必要な家庭ばかりになっちゃう。
でしょ?

けれど、便利と言う名の浪費も人を奴隷状態にしちゃうのよね。




「新しい物が欲しい」この気持ちはわかるのよ。私も思春期の頃はそう考えてた。
でも2年や3年で古い物になってしまう新しい物ってそんなに必要?

いや、2年や3年で新しい物を買わなければならない物はたくさんあるよ。パンツなんてできれば翌年には新しいのが欲しいじゃない?
女子は特に。

コンビニやスーパーのレジ袋なんかよりも、新しい物をすぐに欲しがる事をやめる事。これが一番環境保護に役立つように思うの。

使い古した家電だって、途上国に持っていけば贅沢品。
捨てるのではなくてまわして使い切る。これに勝る物無しと。




最近の家電なんて買い替え寿命がめっちゃ短いでしょ?
だから、信頼できそうなメーカーの商品を買う必要が無い。安値の、どこが作っているかわからないようなものを買わないともったいない気にさせるぐらいジュ描画短い。

パナソニックのオーブン。すごく良い商品なのに、レンジ寿命が短すぎて買う勇気が無い。だって、上位クラスのを10万円前後の金額を出して3購入しても、3年以内に壊れたら泣くってばたらーっ(汗)

捨てるのにもお金かかるしね〜。




断捨離とかさ(笑)
持たない生活とかさ(笑)

あ〜いうのはあんまり好きじゃないの。だって無駄金かかるし。結局また買う事になるんだからやめとけって思う(笑)

それよりも、しまう場所からあぶれる物は捨てようぜ。こっちの方が私には大事かもしれんですわ。

「ダイヤモンドは永遠の輝き♪」って言うと、ムキになって「それ嘘ですからぁ!!!!」って言う人いるじゃない?
そういう人を眺めるのは結構好きかもしれないです。

永遠に存在できるものは無いし、永遠に形を保てる物も無い。
その永遠を求めているのがクリスチャンなので、やっぱり一般的な価値観は合わないんだろうなぁって思う。

でもさ、あの水は、すごいよね。何を買っても、誰といても得られない満足というか、充実というか…。
宝物だよね。
posted by Mako at 12:00| 一人じゃないよ

2020年10月01日

いわゆる神秘を否定するのは愚かだが神秘主義はもっと愚かである

タルムードを排除した、最も純粋なユダヤ教に近く、原始キリスト教の状態を残していると言われるエチオピア正教会。

どうせ言葉はわからないので、音楽を持ってきました。



都市伝説好きの人が頻繁に口にする単語『失われたアーク』。それがエチオピアに隠されているという噂もあります。

都市伝説好きの方は『キリスト教』と言えばすぐに『バチカン』となってしまうのですが、エチオピアはもっと古くからキリスト教を国教にしています。

ユダヤ教もキリスト教も、文字が読める事はとても大切です。エチオピアはアフリカ地方でも珍しく昔から文字を持つ。その背景にBibleがあった事は大きいと思います。




同じく都市伝説好きの方が間違って(๑⁼̴̀д⁼̴́๑)ドヤッしてるのが『カバラ』です。

歴史的順序も、系統も、都合良く書き換えられています。

私は思うのです。一次資料、二次資料と多くの証拠があったとしても、人は自分の耳に優しい事を受け入れてしまう。

これは陰謀論にしても言える事だと思います。




都市伝説で有名なナオキマンさん。彼が『666が悪魔の数字になったわけ』という事で、都市伝説的には面白く、事実としてはかなり嘘な内容を語っているのを聞いた事があります。

特に何が間違いかなんて取り上げる事はしません。
でもひとつだけ。



ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

ヨハネの黙示録 13:18



問題の聖書箇所です。
もう1度引用します。



その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。



そもそも666は悪魔を指していません(笑)




カバラは基本的に神秘主義です。元はもっと理論っぽかったと思います。

反キリスト的結社や派閥も神秘主義です。

クリスチャンの中にも神秘体験を伴う事があります。しかし、神秘主義ではありません。どちらかといえば超自然です。

これを経験するにしてもしないにしても、信仰の強さになんの関係もありません。

それは、世間で言われている霊能力や超能力のようなものでは無いからです。

理性的でありたい。そう思う人にそのような形で何かが起こるわけではありません。
逆に霊的でありたいと願っていたからと言って同じ事です。

コリントを思い出してみてください。



しかし、主は、 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」 と言われたのです。

Uコリント 12:9


キリスト者同士の交わり、その燭台の間を歩かれるキリスト、聖霊の働き…

その中に既に現されています。十分なのです。

交流の中で、交わりの中で、分かち合いの中で、十分な分を受け取っている。これは既に超自然的経験です。

世人の見ないものを見ている。これは既に主からの神秘を味わっています。
主を待ち望み主を探す事を怠っては気がつかないうちに過ぎ去ってしまいます。

もうひとつ聖書を引用しましょう。




八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネ 20:26〜29



「平安が…」よりも「安かれ」と訳される古い聖書が好きだったりします。
(o^^o)エヘヘ



「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」



弟子達がいる中で、ただトマスだけがこのように言われました。

それはトマスがこう言ったからですね。



それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、 トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

ヨハネ 20:25



他の弟子達がいる中で、トマスだけが主に語り掛けられた事。これは他の弟子達は経験していません。

彼等はそれを分かち合っただけです。

トマスだけが経験した事ですが、これはトマスの不信仰(他の弟子達への嫉妬かも?)から出た事です。

信仰的なのはどちらでしょうか?
幸いなのは誰でしょうか?

そこまでしなくても分かる聞き分けの良い子と、そうでない子もまた扱いが違います。

使命や役割で分けられる事もありますが。

「もうダメだ」と思ったとき、主の介入によってどうにか生き延びたのはダビデです。
ダビデが味わった事を私達は経験していないのでしょうか?
決してそんな事は無いじゃないですか。

自分の力では起こり得ない事は、人生の中で何度も味わってきたではありませんか。

それもまた神秘的経験なのです。

しかし、注意しなければならない事があります。

いわゆる神秘を否定するのは愚かですが、神秘主義的に生きるのはもっと愚かです。どちらも主を知らない生き方だからです。

主は秩序と区分けをハッキリします。混乱や無秩序の神ではありません。
神秘主義は混乱と無秩序をもたらします。
私達はただ、受けるものを受け、求めるべきものを求めるだけの存在です。
万策尽きたときにこそ主の力は存分に発揮されます。

海の前に追い詰められたモーセとイスラエルの一行と同じです。
誰も手立てが無かったのです。



「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」

Uコリント


万策尽きた状況。きっと世人が見ればただの不幸人です(苦笑)
そこまで行った経験が少ないほど、自分が主を探す事を気をつけなければ見つからない・わからない事が多いと思います。

つまり、主を知ること。そして主の御手の働きを見出す事こそが神秘なのです。
そこから全てが動き出す事を見て経験する事を「私はそのような経験がありません」と言ってはならない。

私はそう考えています。




多くの兄弟姉妹達へ。

私は私の人生の時間の中で主を味わいました。
しかし、私がまだ味わっていない主の真実と、人が見た事も聞いた事も無い、考えつきもしない完全なわざを日々味わっているあなた方を羨ましく思います。

直ぐに来ます。私達全員が同じ経験を同時にする主の日が。

そのときは同じ経験を分かち合いましょう。

マラナータ。主よ、来てください。

posted by Mako at 06:17| 一人じゃないよ