2019年10月15日

子供の頃の疑問とか家庭とか






フラットアース説は、子供の頃どうしてもわからなかった問題が列挙されているように思えるの。

私の地元には多摩川が流れてる。それを眺めていた頃、えっと、時間が逆行して年齢が若くなるほど、私は死にたくて川多摩川を眺めていたのよ。
ぼんやりそれを眺めていると、日が沈み始めて夕方になるでしょ?
「地球が回っているとしたら、もうじきこの川は逆さまになるのか。どうしてこぼれないんだろう?」なんて思うときがある。
重力が…とか関係ないのよ。だって、牛乳だって麦茶だって、海や川以外の液体は逆さまになればこぼれるのだから。

そういう、もう忘れてしまった疑問を列挙しているから面白いんだと思うの。

昼間でも月が見える日があるじゃない?
物体なら透き通っていたら変なんだよね。
「これこれの現象でかくかくしかじかでそう見えるんだよ」と言われても、それならば、透けた向こう側が見えてはいけなくないか?なんて(笑)

こういう事を考えるとき、無知って楽しいなぁと思うの。
私はその事に無知だから、色々な事を考えついたりできるし、それでワクワクできる。
計算や理論で決まった答えが出せるのはつまらない。

なんでだろう?と考えていた事が、大人になったら言わないし聞かないのが常識になっちゃうでしょ?
でも、本当はさ、教えられた事じゃなくて、いろんな事を探求したいのだと思うの。
テツトモのなんでだろうが、今でも営業でたんまり稼いでいるのは、この好奇心をくすぐるからだと思うのよね。




クリスチャンがクリスチャン人生を長く続けられるのは、この事に似ている気がするの。

去年わからなかった事が今年はわかって、10年前できなかった事が今はできて。ずっとわからず、今もわからない事を、幼子から教えられたりして(笑)

病気で余命宣告された人が「ありがとう。先にいってるね!」と安らかに息を引き取る時も、この人の平安はどのように来ていたのだろう?なんて事まで、創造主がいると知った瞬間から、知らない事やわからないことの多さに気付く。

人生がうまくいかないと思える時も「神さま、どうして?」と言う。
とても幸せに思えた日も「神さま、どうして?」と言う。
空が青くても「神さま、どうして?」と言うし、嵐や大雪の時も「神さま、どうして?」と言う。

大人から子供まで「神さま、どうして?」と言いながら生きてるのはちょっと可笑しい。
会社に行けば、経営者、学校に行けば教師、こういう人達が子供達と同じ事を言ってるのって(笑)大人には大人の問題が、子供には子供の問題があるし程度も違う。それなのに言う事は同じって(笑)
やっぱりみんな、創造主である神さまの子供なんだなぁと思うの。




世で教えられた事は生きる事とは逆の事が多い。蛇が仕切っているから。

"神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。"
創3:14


このちりを食べるのちりはイタリア語では polvere(ポールヴェレ。ラテン語ではpulvis )。これは、(ちり)(ほこり)の意味だけど、人が死んで土に還るという時の土の代わりに使われる単語なのよ。

死の(ちり)を食べる。まさにその通りだわ。

彼が良いもののように見せている、地位、名誉、お金、全部虚しいものよ。それがあれば幸せになれると、人が這い上がれば這い上がるほどにも失う分が増え、満たされない虚しさも増える。また足りないものを満たせば良いともがいてそれを得れば、やっぱり空虚が残る。最後には、得たもの全てが他人の手に移り、自分は死ぬ。

その塵を食べている蛇にはピッタリの裁きよね。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

マタイ6:28〜30


立派な宝石をつけた美しい女性や立派な王達よりも、手入れもされずに自然に咲いている野の花の美しさの方が人を感動させる。
あの煌びやかな宝石や衣装を身につけている人のようになりたい。そう思って努力しても、自己満足では虚しい。
それなら、そこに美しく咲いているだけで人を感動させる事が出来る野の花の方が価値がある。

結局、創造主が『良いものを』と人に備えてくださったもの以上に、人の心を動かせるものはない。
親も、子も、友も、愛しい人も、そのひとつですね。これを汚すのは本当に愚かで罪深い事です。




自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう
Tテモテ3:5


家庭というものは、神がその人に与えた王国のようなものです。リーダーとしては男性が選ばれていますが、優越がつけられているわけではありません。
その王国を虐待や暴力で支配するのは、どこかの国の独裁者と同じです。
王に守られている人(子)が王に逆らうのは、国家に反逆しているのと同じです。
国の民を貧しく卑しめ、煌びやかな装飾品で飾る女王も愚かな権力者です。

家庭の中でこのような者であると知っていたなら、どこの社会でも役職には選任されないでしょう。

男は男らしく、女は女らしく、父は父親らしく、母は母親らしく、子は子らしく、老人は老人らしくあるべきです。

何も筋肉質で逞しい方が良いとか、おしとやかにとか言っているのではありません。

それぞれに与えられたそれぞれの立場や生き方があります。男性だから楽しめる事、女性だから楽しめる事があります。親だからできる事があります。子だから受ける特権があります。

「お腹空いた」と言うだけで食べ物が与えられるのは特権ですよ。よその家の子が「お腹が空いた」と言えば「食事時だから家に帰りなさい。ご両親も心配しているでしょうから」と帰されてしまうのです。
家族という国を治められない男も女も愚か者であり、それを破壊する者の罪は大きいのです。

さて、神の子にも特権がありますね。父の家にいるからこその特権が、放蕩息子達よりもあるわけです。ただし、口うるさく感じる事もあるかもしれません。それを捨てるのは愚かです。それを破壊するのも愚かです。
posted by Mako at 06:26| 一人じゃないよ

2019年10月12日

夜明け待ちしながら考え事


みさちゃんの歌ですが、私はこの歌が大好きです。ゴスペルシンガーなので、歌の背景にあるのはJesusが多いです。




聖書にも聖書の神にも、全く興味が無いのに、『ファティマ預言』に興味を持つ人は多いんですよね。日本には。私はもちろん信じていないし、神からのものだとも考えていません。宙の支配者ならやりそうな事ですから…その現象が、実際にあった事は十分に考えられると思います。
あれもまた霊ですから、人の知らない事を語ったりします。聖書に出てくる占いの霊に憑かれた女は、自分の主人達をそれで儲けさせていました。だから、実際に起こる事を語る事もできるのです。あれらは、自分達の終わりの日がいつかも知っています。




『ファティマ預言』を語る人達の中にはこう言う人がいるじゃないですか。
「バチカンの法王で、ペテロの名を持つ人が出たら、それが最後の法王だ。」
彼等が言うには、現法王がそれの可能性が高いそうです。
彼等の知っている事を、私は知らないので理解できませんが…

ペテロは、キリストの一番弟子的存在です。キリストが、人目につかない深夜に、不当な裁判を受け、嘲られ、罵られ、唾をかけられ、からかわれていた時、唯一キリストの近くにいた弟子でもあります。
キリストを想うあまり、そのような行動に出た人です。
私は、本当にこれが素晴らしい行動力だなぁと思うのです。
しかし、その行動が思わぬ結果を生みます。

「この人もあのイエスと一緒にいた」と指摘されると「あんな人は知らない」と否定し、最後には、なかなか酷い否定の仕方をしてしまいます。
ペテロは、復活の主(イエス)によって、この事から立ち直っていくのですが…




私は、みさちゃんのあの歌が好きな理由に『ただ、前に進みたい』と思っている葛藤が自分の中にあるのです。そうさせないものがあるのでもがいているのですが…

失敗をしない人はいないし、間違いを犯さない人もいません。それが人間です。
その度合いと内容によっては、世から罰を受けるような事もあります。

クリスチャンの立場で言えば、昨日失敗した自分はもう死んでいて、今日は新しい自分として朝目覚めるべきなのです。昨日誰かを傷つけてしまったら、今日は、その人を傷つけない自分が目を覚ましている。夜の神との交わりの時間は、その為に大切なのです。
創世記の天地創造では「夕があり、朝があった。第何日目」と日を数えています。
失敗や後悔しなければならない自分が死んでようやく朝が来る。これを繰り返す人がクリスチャンかもしれません。

ペテロは、その日から何日も後悔や苦しみの中にいました。けれど復活の主によって、ようやく朝を迎えたのです。他の弟子達よりも、長い夜を生きていた事になります。




クリスチャンであってもクリスチャンでは無くても、ハッキリしている事があります。

『失敗』に終わった事の続きを頑張っても朝は来ないという事です。それは失敗の後押しをしているに過ぎません。新しい朝が必要なのです。失敗したのにその続きをしても、失敗の深さを掘り下げるだけです。
失敗した事によって得たものが無ければ、人は成長しません。
それでどうするのか?ここです。

クリスチャンは、この点においては…かなりチートしています。導き手となるキリストを持っているからです。
だから、個人的には、キリストを深く知る事をお勧めしたいとこですが…

最近私はこの例えを言葉にしました。
「殴られたら嫌われたから、もう一発殴ってやったみたいな考え方だな。」

これの意味わかります?
殴ったら嫌われたのだから、もう一発殴ったらもっと嫌われるのが当然だと言う事です。道で見かけたら、見つかる前に違う道を通ろうと、相手が引き返してしまうほどに。だって、会ったら殴られちゃいますからね(苦笑)
殴って嫌われたからと蹴りに変えても同じ事です。

こういう事は、愚か者がする事です。
愚かであった自分が死ぬ事で、新しい朝が来ます。そこには「よし!もう一発殴ってやろう」と考える自分はいないのです。この期間が短ければ短いほど、修正がききやすく、長ければ長いほど手に負えません。長くかかった分だけ、自身の愚かさを表しています。

「殴ったら嫌われた。頭に来たからもう一発殴ってやる事にした。」この自分が生きている限り結果は同じです。無意味な努力を無駄に費やしているだけのことです。
「今日は違う結果が出るかも?」と頑張ったところで、それはギャンブルと同じです。オッズが高いほど(期待した結果が大きいほど)勝率は低い。殴られる相手も身を守るのに必死ですから、逃げていきます。追いかけて追いついて殴るを繰り返しているうちに、相手だって死にます。死んでから「殴り過ぎた」と後悔しても遅いのです。

それに…
殴り過ぎた事が問題なのでは無く、殴った事が問題なのです。
殴った力加減や回数じゃ無いのです。




何故こうなった?
これを正確に理解する為には、後悔する時間も必要です。

前に進む為には、前とは違う道が必要なのです。
同じ過ちを繰り返す人より、同じ過ちを繰り返す日々と決別できる方が賢い人なのは言うまでもありません。

私は、イエスさまというチートツールを持っているのでね…
それを少し分けられたならと思います。
窓の外や空、自然… そういうものをじっと眺めながら、彼(キリスト)を思った時に安らぎが与えられる人が1人でもいるといいなぁと。
私は今日の夜にでも、それを祈ってみるよ。
彼は自分の命そのもの。命を与えた親。そう思って心を寄り添わせると、愚かな事をしていた時も、辛かった時も、1人じゃなかったとわかるよ。だって、あなた死んだ事ないでしょ?
その愚かな時代も、辛さも、寂しさも、絶え間なく共にいて同じ経験してる。
命を持った人をどう扱うかは、命のきみである神に何をしたのかと同じ事なのよ。

相手に対してだけじゃない。自分が人から受けた分もそう。裁きの時にはその日々が語られる。
命を大事にする事は、神を大事にするのと同じ。
人は新しい朝を生きられる。絶対に。


posted by Mako at 05:54| 一人じゃないよ

2019年10月07日

胸がザワザワ

きっかけが都市伝説で書き始めたからね、まいっか!という感じで…
書き続けてるんだけど。

私の言い方や書き方は、きっと一部の教師に逆らうと思う。

見た事、見えてきた事、読んだ事、聞いた事、色々交差していて、内でわかっている事を引っ張り出してさ。それを言葉にするのは難しくて…たらーっ(汗)

たぶん、多くのクリスチャンが「わからない」と思ってきた部分に触れる事なので、もう少し慎重になるべきなんじゃないかと。

私もね、「わからない」って言ったのよ。元は。
色々見えなくなった時に。

宇宙でもない、空でもない、宙にいて色んな事を教えてもらう夢を見た時がある。
いろんなものを見ながら、父に手を引かれる幼児のように、なんでも目につくものを質問したかもなぁ。
それは、始まりに過ぎなかったんだけど。

その時知った多くの事は、何も取り出せない。そりゃそうよ。夢だもの(笑)

それに似てるなぁって思うの。
取り出せない事が。取り出せないというのはちょっと違うなぁ。取出せるけど、しまうしかないってやつか?

きっとみんな持ってると思うの。取出せる真理というか…ねぇ?

私が思うに、多分ね、必要なときのものなんだと思うよ。それが必要なときまでそこしまわれてるだけなんだろうね。
多分だけど。

もう少し慎重になるべきでは?と考えるのは、それはそれで無駄じゃないと思うんだが…が?…が?

こういう時は祈った方がいいね。
posted by Mako at 22:07| 一人じゃないよ