2021年01月18日

想像できる?

想像してみて。

ーーーーここからーーーー

座って外を眺めていると隣に誰か座る。
そして「見てごらん。語られているよ。」と指をさす。
指をさされた方向を見ると、清書箇所を語っている人がいる。



またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

ヨハネの福音書 9章



ーーーーここまでーーーー

心の中がスッと軽くなった気持ちになるけれど、同時に複雑な思いが込み上げてくる。
自分ではコントロールできない色々な思いがね。

風は気のままに種を運ぶ。
運ばれた種は必ず何かを成し遂げて返る。
無駄に運ばれる種は無い。

この聖書箇所には続きがある。



「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」



このような情勢でもあるので、ばかりに気が行ってしまう。けれど、前もって告げ知らされた神の言葉。これは全て実現してる。
クリスチャンはその事の証人であるけれども、これは先に起こる事を予め見ているのと同じだと思う。

「あの預言者のように、それを見れたら、聞けたら」と考える人は多く、その気持ちは、私も時々思う。けれども、それは私たち個人個人の傍らにあって、その間を歩かれる神がいる。

インマヌエルと呼ばれる私たちの主は、その呼び名の通りの方です。

でも、私はそれでも、様々な葛藤を抱えて向き直ってしまうのよ。
だから、クリスチャンとしては大人にはなりたくないの。
「なんで?」「どうして?」とまとわりつきながら、神の指のわざに感動していたいの。

最近ね、「稼ぐ」事ばかりに重点を置く人が、結果を出したとか成功者だとか言うのを眺めて思う事があるのよ。
「経営語る前に経済学ぼうぜ」ってね。「全体が見えとらんなぁ。子供か!」なんて。
言っておくけど私は私で経済音痴なのよ(笑)

聖書は、私たち主の民が愚かである事を許さない。思慮深くある事を勧めてくる。
だから、何か物事が起こっても、クリスチャンは少し引いて見たり、その中の個人にズームしたりして、現象や事象を悟ろうとする。
神が人に与えた知性も用いる。この繰り返しは、人の愚かさを少しずつ消してくれる良い機会となっているが…
私はそこで立ち止まるのよ。「私はいいや。このままで良い。」って。

私はヤコブを自分になぞらえる事がよくある。なかなかに強情なところがあって、相撲を挑もうとするんだよ。
でも。
やっぱりイエスさまが大好き黒ハート
posted by Mako at 18:51| 一人じゃないよ

2021年01月15日

殺すのは神か?人か?プラス版〜おまけの話〜

「人を殺す認証は悪だ。」これは世界共通の認識であり、道徳であり、倫理です。



「例えそれが神であっても」という認識について 前回の投稿で書いてみました。



クリスチャンとノンクリスチャン。双方が聖書を読んだときに違いが出るのは、御霊(みたま)(別名:聖霊)を持つか持たないかの違いによるものです。



御霊によって聖書を理解する事は、御霊の働きによる解き明かしがあるという事です。御霊をフルネームで言えば『真理の御霊』になります。クリスチャン個人の知識によらず、教義によらず、ただ内在した御霊がそれを証するのです。ですから、教義や教師が近くにいなくてもわかる事が多くあるのです。



クリスチャンとノンクリスチャンの聖書の読み方はここが違うのです。人間の読解力や知識によらない解き明かされた真理に従って読む。これがクリスチャンの聖書の読み方です。



御霊は『御父、御子、御霊』の三位一体のひとつです。



しかし、神はこのように人間を創造しました。






神である主は(おお)せられた。
「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
創世記 2章




1人ではなく、互いに教えあい戒めあうように、個人や環境に合わせて少しずつ解き明かされます。この事によって、皆が協力し合ったり、教えたり教えられたりという神の望む人間関係が出来上がります。



クリスチャン人生とは持ち寄りパーティーのようなものです。それぞれの専門や得意不得意を持ち寄ってひとつの社会を形成します。聖書に関する解き明かしもこのようになります。



ですから、その事についてスラスラと饒舌に言える事もあれば、逆のときもあります。



牧師や伝道者が、前もって準備しておいた聖書メッセージを持ち込んでも、御霊に突き動かされて別の事を語って終わるなんていう時もあります。



世間で考える憑依と違うのは、人と聖霊(神)との共同作業である事です。



御霊は主に、水や油という形態で表現されます。湧き出るものであり、注がれるものだからです。



しかし、御霊に従った語り口という者は、クリスチャン同士では頻繁に用いられますが、ノンクリスチャン相手には人智にアクセスしやすいように言い換えられる事が多いです。



それをわかりやすく説明するとすればこうなると思います。



御霊による智慧や知識は霊に直接的であり、クリスチャンがノンクリスチャンに語るのは『聞く耳』に対して語っているのだ。



霊を揺さぶるような言葉は真理だけなのですが、ノンクリスチャンが、わからないでそれを味わうとオカルトチックになってしまうのです。そのようにして異端が多く生まれました。



ですから先ず、聞く耳のある人に、神について。キリストについて。多くの事を人の知識でわかるように語るのです。



誰でも読めるインターネット上に私が書く時、この言い換えを多く行っています。「クリスチャンにしかわからない」事を想定して書いている場合もそうです。



今回は更にその言い換えや人間的な言い換えを行いながら書く事になります。それがタイトルのプラス『余談』です。↓






更に言い換えというよりも私的見解が多くをしめましたね(汗)
続きはこちら『『静かに続いている霊との戦い』
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posted by Mako at 13:59| 一人じゃないよ

2021年01月14日

イザヤを想う



もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。
しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。

ヨハネ15:22






クリスチャンが存在するところでは、神のことばが何かしらの形で語られる事になります。未来を予知する者を預言者と定義している人は多いです。でも違います。『神の言葉を預かる者』こそが預言者です。
未来を予知する者は、予見者です。これは聖霊が与える賜物のひとつでもあります。
聖書に残されるような預言者達は、聖霊に満ち満ちているので予見もできます。しかしそうではなくて『神が予め告げた事』が後々起こるという事で預かっている言葉の語り手なのです。

そういう事ですから、真のクリスチャンは預言者の1人でもあると言えます。私が前回書いた事象について、私の愚かさを露呈するわけですが… 私が意図してもしなくても、私が語っても語らなくても、神の言葉が色々な面で届けられました。私以外の人にです。

ある者は聖書の引用によって。ある者は賛美を聞く事によって。ある者は文章によって。ある者は聞く事によって。方法は様々です。
この事について私が愚かであった事の説明をするとこうです。

私が語るべき事を語らないので。
私が告げるべき事を告げないので。
私が証すべき事を証しないので。

これらが揃って、キリストがそれをしたという事です。

キリスト教弾圧や迫害は、ユダヤのイスラエルから始まりました。イエスを主(しゅ)と告白する者を、捕らえ、打ち、殺し、奪っていました。その仲間の中にパウロがいたのです。
同じ過ちをしている人物や、それに1番近い人。パウロの場合は近い人物で、これから本格的に同じになるところだったと私は考えますが。
そこから1人を選んで、その人達に神の言葉を届ける者とする。これは割と良くある神の動きなのかなぁと思います。



「荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」"

ルカの福音書 3章



ヨハネについて記されたルカの箇所です。イザヤ預言が成就した事の引用ですね。

この光栄に私は預かる事ができなかったという理由で愚かです。主の為に道を備える光栄を自ら逃してしまったのです。
語らない事。告げない事。証しない事によってです。

学識のある学者が集まる場所ではなく、立派な宮殿ではなく、善人と呼ばれる人がいる場所でも無い。『荒野』で。ここに私は注目したいのです。肥えた土地ではなく、潤った地でもない。荒野です。
私達のイエスが訪ねて歩いたのは、善人や道徳的に優れている者ではありません。罪人の頭と呼ばれる、現代の私で言えば反社的人物や、病で死を待つだけの人々、悪に支配された凶暴な人のところへです。
それもまた荒野と言えます。

私もまた、色々な事があって荒野にいたわけですが…
ことごとく神に逆らって駄々をこねて何もしなかったと言う事ができます。

主の通られる道筋を真っ直ぐにする事の光栄は、イザヤのようでなければ得られません。



「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」



こう言えなければ得られません。イザヤはキリスト降誕のときも、世の終わりに向かっても、無視できないほど重要な神の預言を残す者になりました。




まぁ。なんていうか。
後悔はたっぷりしている。そういう事です。
posted by Mako at 14:09| 一人じゃないよ