2019年11月09日

証と課題〜黙示録に備えて〜

ちょっと長いです。


神の国の生き方的な話 』に繋がる話なのだけれども…

今『しかし、最後まで耐え忍ぶ者は…』と言われている時代に入っている事を考えながら書いています。




ある人がクリスチャンになるとき、そして、その親や家族の反対が強固だった場合の事を考えてみて欲しいのです。

人がクリスチャンになる事は、イエスがキリストである事を信じ、御霊によって「イエスは主である」と告白する事から始まります。
ですから、両親や家族に「私はクリスチャンになります」と告白するときには、既に命へ移っている事になります。

親子喧嘩状態になったり、教会へ行くのを阻止されたり、「私がクリスチャンになる事はこんなにも困難な事なのか…」と悩む事もあったと思います。
すんなりクリスチャン生活に入れた方も、このような悩みを持つ兄弟姉妹の話を聞いた事があると思います。

当事者である兄弟姉妹は、喜び踊りあがるべきだし、当事者ではなくて、それを聞いた兄弟姉妹の方は、羨ましいと感じるべき状況です。

自分の家族がクリスチャンになると聞いて大反対するぐらいだから、宣教師や伝道者の言葉なんて聞かない人々です。
TVや映画等のメディアで関連する事が放送されていても「はいはい、キリストさんね。」と通り過ぎてしまう人々です。

けれど、自分の息子や娘、家族と衝突すれば、否応(いやおう)無しに、御言葉や証を聞く事になります。議論や口論をする事になります。見たくなくても、その新しく御国に加えられたクリスチャンの新生と成長を見る事になります。

その、苦悩の中にいるクリスチャンが、その人にとって大きな壁であり、障害である強固な人々に、『神の御言葉が伝えられ(わざ)と証がされる最大の機会になる』という出来事が始まっている。
既に御国の一員である事が証明され、そこから(つか)わされた者としての、選びの(うつわ)になっているじゃないですか。

すんなりクリスチャン生活に入れた兄弟姉妹が、羨ましいと思うのは当然の事です。
あの聖書に出てくる預言者達もそうでした。使徒達もそうでした。弟子達もそうでした。
強固に反対され、受け入れられず、(のの)しられたのです。

もし、やがてその人がクリスチャンになる事を認めれば、その人の頑なに閉じた扉の隙間から光が刺す瞬間を目撃するようなものです。
これは信仰者にとって羨ましい事です。
それらを経験できなかったクリスチャンは、共に祈る事や、一緒に悩む事によってお裾分けをいただくしかありません。

お裾分けをいただくクリスチャンは、御遣(みつか)い達のように生きる御国(みくに)の民としての生活を味わう事になります。

だから、それすらも味わう事ができない無教会派や、今その状態にいる人は可哀想なのです。
御遣(みつか)い達が味わいたいと思っても味わう事ができない、御国(みくに)の民の光栄すらも味わう事ができないのですから。




それを味わったクリスチャンへりくだる事が必要です。

  • (つら)かったけど頑張った。
  • 悲しかったけど耐えた。
  • 絶望したけど立ち上がった。


このような考えは捨てなければなりません。
その人がしたことは「ただ信じた」以外には何もありません。
あったとしても『開かれた御言葉に従った』という行為だけなので、「私は主の命令に従いました。」や「御言葉の通りにしていただけです。」と、全員が言うべきです。

実際のところそうではありませんか?その事によって誰かを憎んだり怒ったりした瞬間があるはずです。
共に悩んだ人も反対者や、ある場合には、悩みを共有している兄弟姉妹の言動に苛立ちや失望を感じたり、何かあったはずです。
長引けば「まだ解決しないのね」と後回しにしたりした事があると思います。

反対者が両親であれば『父と母を敬え』に逆らいますよね。『敵を愛しなさい』『隣人(となりびと)を愛しなさい』色々と引っかかる問題が出てきます。
それが自分の本心であり本質です。

それを乗り越えてもたらされた奇跡は、神の御手のわざですから、神に栄光を帰すべきです。
自分は本来の性質や本心があって、本来受けるはずのない光栄を主から賜るに過ぎないのですから、自分を高くあげてはいけません。




私が今日この事を書いたのは、自分の経験によります。

いや、クリスチャンになる為に反対者があったとかいう話ではなくて、困難や苦難の中にあって、御言葉を知らない人、福音を聞いた事も無い人にそれが届けられる結果になった。その経験からこれを書きました。

実際のところ、私がこれらの只中にあって、神に栄光を帰したのは、ずっとずっと後になっての事でした。
それを諭してくれる兄弟姉妹や教師が身近にいなかった事も原因にあると思います。

  • 私は頑張った。
  • 私はそれでも主を信じた。


このような思いを持って、何かある度に「神さま、どうしてよ?」と高慢な姿勢で訴え続けていました。
それが益々、信仰の目を塞ぎ、霊が覆われたのです。

ココに書いた夢の話の一部も、苦しみ悶えて憐みを請い、数日それだけを言い続けながら泣き暮らしていたときに見たものです。

色々な事を経験したり通ったりする中で、私が新しく知ったというか、信じた事があります。

クリスチャンという生き物(笑)は、「死んだら天国に行ける」というようにではなくて、既に移されているのだという事です。
だから、立場的に言えば(つか)わされた御遣(みつか)いのようなものだと。
ですから「クリスチャンとは寄留者だ」という表現は、私にとっては真実なのです。

そしてこれもまた、生きた神の言葉として働いています。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
マタイ5:11〜12節





さて、冒頭に書いた『しかし、最後まで耐え忍ぶ者は…』ですが、これは、今日(こんにち)まで続いている事ですから、私達の時代での事かもしれません。と前置きをさせていただいて…

クリスチャンがクリスチャンだというだけで困難な時代が既に強くなっています。

教会が異教に買い取られ、あちらこちらでクリスチャンがクリスチャンだという理由で襲われて殺されています。

これは東住吉の高原さんの言い方を使わせていただきますが…

ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
エゼキエル38:16


わたしの地=イスラエル。これを攻めるだろうかの国が『殺されているキリスト教徒を守る』という大義名分を看板に掲げ、周辺地域の(まつり)や紛争に加担してから月日が経ちました。

あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
Uテサロニケ2:6


終わりの時に現れる獣を引き止めるものが減ってきています。
教会は始まりからずっと、困難と迫害の中で、先人達の多くの死と共に増え広がりました。
しかし今は逆です。
就寝時間が来ると、夜のベットタウンから灯りがひとつずつ消えていくように灯りを落とし始めています。

クリスチャンがクリスチャンである。キリストの御国の民であるが故に起こる事は、クリスチャンになった時に身近に起こる困難のように『信仰を着る』事で耐える覚悟が必要な時期が迫っているように思います。

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人5:2〜5


耐える事は自分の力ではできません。
クリスチャンがクリスチャンになった時に身近に起こった困難のように「ただ信じる」事によってだけ通過できます。
信じる事は絶対的に信頼する事であり、また、愛する事です。

見知らぬ他人にはできなくても、愛する子、親、兄弟の為にはできる事はたくさんあります。愛する故に信頼し合っているからこそできる事です。
神の愛を信じ、信頼するなら、それはそれ以上のものです。
そしてその強固なものは、御霊(みたま)に力を運ばせます。
クリスチャンと主が繋がっているからです。

民族としての象徴的なものも灯りを消し続けています。

私達の時代に起きている事は、今に生まれて生きている私達の時代の出来事です。
先人の信仰者や預言者達のものではありません。
私達の時代のクリスチャンが頑張らないで誰が頑張るのでしょうか?
『戦いは主のもの』ですから、私達は勝どきの声を上げるまで、信仰で武装し、城壁をまわるだけです。

何を担当したいですか?
角笛ですか?それとも士気を保つ楽曲でしょうか?
それとも主の兵士を増やしますか?
列に並びます?
キリスト教の仮面を被って、暴虐や人殺しを行う軍隊ではなく、愛と信仰によって戦う真の神のですよ。

まぁねぇ…これに加わらずして、勝利を宣言する時だけひょっこり顔を出すお調子者になりそうな私をどうするか?
この課題がでかいっすたらーっ(汗)
posted by Mako at 21:29| 聖書関連

2019年10月30日

プニューマとルーアッハ

ちょっと目覚めた時の走り書き。




プニューマは心のままに吹く。その音は聞こえるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。
プニューマによって生れる者も皆、そのとおりである。


クリスチャンであればどこかで聞いたような文節だと思います。
その通り!これはヨハネによる福音書3:8の個人訳です。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

新改訳から同じ箇所を引用


プニューマは、ヘブル語ルーアッハをギリシャ語に訳した単語です。
ルーアッハ。息や風のような、目には見えないけれども、空気中を移動するようなものを指す単語です。

あまり良くない事ですが、単語を入れて創世記を読んでみましょう。



初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神のプニューマ又はルーアッハが水の上を動いていた。
創1:1〜2

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの プニューマ又はルーアッハを吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
創2:7


統一性が出てきたのと同時に、先のヨハネ書の引用箇所が、少し深く理解できたような気がしませんか?
翻訳されたテキストの分かりにくさが出ているケースですね。

もうひとつ単語を変えて引用したい聖書箇所があります。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものはプニューマ又はルーアッハによるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

マタイ1:19〜21


下線を引いた箇所に少し追記します。
ローマの支配下にあったイスラエル民族、ユダヤの民は、自分達が神に背いたので、異邦人の支配下に置かれてしまったと考えています。

バビロン捕囚もそうですね。

イエスとエルサレム神殿の学者達、祭司達との揉め事で「安息日にしてはいけない事を…」と頻繁に出てくるのはこの為です。

それは何から来ているか?『モーセの十戒』です。『安息日を覚えてこれを聖とせよ』つまり、『休息の日に、仕事に類する事をするのは律法違反である』という抗議をイエスにしたのですね。

その十戒の中に、ちょっと古めかしい言い方をすれば『汝姦淫するなかれ』があります。
婚姻関係に至らない間柄で性行為をするなという事です。
モーセの律法、つまり十戒(戒律)に特に厳しかったこの時代に、婚約期間中に妊娠した事実が知れ渡ると、イエスを身篭ったマリヤは、石打ちという死ぬまで石を打ち付けられる刑で死刑になってしまうのです。

それを思ったヨセフは、人知れずマリヤを去らせようと考えたのです。優しい人ですよね。

ですから、都市伝説テーラーが言うような、マグダラの女と呼ばれるマリヤとイエスの間に、婚約期間も婚姻も無く子が生まれる事は、大変な無理難題だと言えます。

その胎に宿っているものはプニューマ又はルーアッハによるのです。


これを踏まえた上で、再度ヨハネ書を読む。

プニューマ又はルーアッハは心のままに吹く。その音は聞こえるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。
プニューマ又はルーアッハによって生れる者も皆、そのとおりである。


どうかな?
再び引用。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

新改訳から同じ箇所を引用


少しだけ理解に奥行きが出ませんか?原文の言語で読める人は幸せですよね!私の憧れです!

教会の教師達は、これらを、勉強会や説教等で、自分の持っている知識を惜しみなく用いて聞かせます。

私が書いたこのような知識は、彼等が、機会のある度に教え、説いています。
彼等の解説を聞くだけで、聖書が何を言わんとしているのかが、もっと具体化されます。

そして、新生した者、つまり『御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。』と書かれた者達には、知識とは別の智慧も同時に説かれています。




ひとつ、誰にでも分かりやすい例え話をします。

ある親子が、船による旅を続けていましたが、船が氷山に当たって難破してしまいます。
海に落ちれば、肉体は凍って死にます。

父親は、船が沈みきらない内に、船から1枚板を取り、息子を乗せて自分も乗りました。
いよいよ船が沈む時がやってきて、板が水につきました。

しかし、板は浮かばず沈もうとします。父親が体を動かすと板の反対側は浮かびます。
父親は観念し「生き延びてくれ」と息子に言い残して板から降りて、水の中に消えて行きました。


この物語が語られた場は、命の尊さを説き、自殺を抑止する為の集会でした。

ーここまでが例え話です。ー

知識だけを得た者は「どんな事があっても、自殺は許されない」と父親の行動を非難しました。

智慧のある者は父親を「素晴らしい!」と賞賛しました。
後者には、命の尊さを守る父親の息子への愛が見えていたからです。

この両者の違いは、敢えて書かなくても分かる違いですよね。

聖書を知識だけで読む人と、知識と智慧とを持って読む人には差があります。

先ほど、ヨハネ書、創世記、マタイ書から引用し、同じ意味の単語を当てはめました。
それぞれに大きな矛盾は無かったと思います。しかし、知識だけで読むと、矛盾を感じたりしてしまいます。
知識疎かにしてはいけないし、智慧を疎かにしてもいけない。その両方が必要な書物が聖書です。




プニューマ又はルーアッハについては知識の問題です。
この単語をあてはめて読み直す事で理解できてきた答え。導き出されるもの。これが智慧です。

智慧の多くは御霊(プニューマ又はルーアッハ)から来ます。だから、どこから来てどこへ向かうのか人にはわかりません。
風が吹けば木の葉を揺らしたり、ピューと音を立てたりしますが、どこからやって来てどこで消えるのかわからないのに似ています。
だから、当初は漠然とし過ぎてしまう事が多いです。

しかし、それは言にする事によって輪郭をおびてきます。
他の智慧者と言を交換する事によって、ますますハッキリしてきます。

それを繰り返して、智慧が鮮明になって来ると、それを証せずにはおれなくなります。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
ヨハネ3:21


この聖句の摂理の一部だからです。

posted by Mako at 02:42| 聖書関連

2019年10月24日

輝く白さの表現にトライ

私がたとえ幻を見たとしても、それを言葉で表現するのは難しい。
人に伝えるのは難しい。
でも、自分がイメージする事なら、少しは伝わると思うの。

ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
マルコから引用


この為に、この兄弟は「短気で怒りっぽかったのだろう」と言われています。

他にも雷を用いた表現が聖書にはあります。

さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、(キリストが)荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにキリストが)いらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。
人の子の来るのは、 いなずまが東から出て、西にひらめくように 、ちょうどそのように来るのです。
死体のある所には、はげたかが集まります。

マタイ24:25〜28


稲妻のような光。これね。雲が空にあって、日が当たっている部分はとても光って見えるでしょ?
あの輝く雲の、もっともっと白い光。よく晴れた日に、太陽光の黄色さとかがなるべく無い白い部分を見ると良いと思うの。
暗い空を切り裂くように、空という陶器にヒビが入るようにキリストは戻ってくる。

インターネットがあるから再臨を見られるだろうと言う人が最近多いけれど、そんなものは役に立たないと思う。だって暗いのよ?ネットだけ無事なの?




こうやってイメージを伝えようと考えながらも…
洗濯物の輝く白さは、雲で表現できるのか?なんて事も同時に考えてしまう。
あー。洗濯しなくちゃなぁ…
posted by Mako at 07:08| 聖書関連