2021年01月16日

静かに続いている霊との戦い

パウロが現在のトルコを訪れていた時の出来事が記されている聖書箇所です。





私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。
この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。

彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。

幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、 「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

使徒16章



下線をつけた部分は、現在のクリスチャン達も、悪霊と向き合うときに使う言葉のひとつです。



しかし、呪文のようなものでは無く、キリストの民(クリスチャン)からの宣告のようなものです。



中世ヨーロッパの映画だと王の遣い。江戸時代なら殿の伝令者の言う言葉のようなものに似ているかもしれませんね。



クリスチャン本人の力や権限によって宣告するのでは無く、その権威者はあくまでもキリスト。「イエス・キリストの御名によって命じる」と言うのは、顕名(けんめい)行為です。



ですから、必ずこのような言葉で無ければならないわけではありません。それよりも、聖霊を宿したクリスチャンの宣告に効果がある事が大事です。また、継続した祈りや断食によらなければならない場合もありますので、言葉の形態は問題ではありません。



聖霊を持たない者が行ったときの事が、別の箇所に記されています。





ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈禱師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。

そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。

すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。

そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

使徒19章



このような言葉や行為は、多く行う教会もありますが、通常はありません。



世間で言うエクソシストのような資格制や力関係等の問題ではありません。御霊がもたらす賜物をそれぞれ与えられていて、その意味での能力差はあります。しかし、手順や勉強に意味はありません。



しかし、そのような事を避けるクリスチャンが多い。私もそれに入ります。その理由は、クリスチャンがオカルトを避ける傾向にあるからです。



これは、前回書いた言い回しや表現の仕方等にも現れています。



前回クリスチャンでは無い人に神や聖書の事を語るとき、クリスチャンは言い換えを多く行っていると書きました。



「では、クリスチャン同士では?」となると、ここでも抑制して言い換えが行われています。聖霊に満ち満ちた状態での会話は、あまり行われません。



そこにいる全員が満ち満ちている状態なら良いのですが、そうでは無いからです。



子供の受験やリストラ、病気等を気にかけていたり、クリスチャンだけが集まっても心の状態は様々です。ですから、そのような人にもわかるように会話するのがマナーでもあると。まぁ、そういう理由がまずは上げる事ができます。



次に続く理由は、やっぱり「オカルトを避ける為に」なのです。



この問題は「私には幽霊が見える!」と言っている人を、否定も肯定もし難い世の中の事情と似ています。



霊的な問題の話や場面になると一歩引いて物事を理解・判別しようとするのです。



それが天からのものか?
人からのものか?
それとも別の何かか?
精神的な病か?
自然現象か?



あらゆる角度から考えようとしますが、自分は専門家では無いという事実も決断に待ったをかけるのです。





こういう者たちは、 にせ使徒 であり、 人を欺く働き人 であって、 キリストの使徒に変装している のです。

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

ですから、 サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても 、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

Uコリ11章



クリスチャンが集まっているからといって、場所が教会だからといって、サタンや悪霊が働かないという事は無いのです。



ですから、霊的な事ばかりに目を向けたり容認したりしていると、いつのまにか神から離れているという事が起こります。このようにして消えていった教会やクリスチャン達が過去にも現在にもいるのです。



だからといって、クリスチャンが霊的な戦いを投げ出したわけではありません。神の言葉を武器に戦っています。



昔、クリスチャンが聖書を持つ事も読む事もできない時代がありました。書物は高かったし、世代の古い時代の言語であったためです。



その為、権力者や政治的権威を持った者と密接だった指導者達は、神の代理人のようにして、聖書の誤った引用や解釈をクリスチャンに説きました。その結果がキリスト教の黒歴史と呼ばれる様々な事柄です。



今は、それが神の言葉に忠実であるかを個人が審査できます。間違っていれば抗議や拒絶をする事もできますし、アソシエーションを変える事も可能です。



これは現在のクリスチャン達の、日常的な霊的戦いの一部です。



見てください。その成果は確実に、誰の目にも明らかです。過去起こった過ちは起きていません。それどころか、キリスト教の偽物組織の事件の方が目立つほどです。



これは、聖書を書き換えたからでも無ければ捨てたからでもありません。逆に熟読し用いているからです。



オカルトを避ける傾向にあるクリスチャンでも、霊的な戦いを捨てているわけではありません。逆に熱心さを持って戦っているとも言えます。


posted by Mako at 15:04| 聖書関連

2021年01月14日

殺すのは神か?人か?

聖書に書かれた罪とは、神を神とせず無視して生きる事である。と簡単に言えばそうなります。

「自分を崇めないと怒る心の狭い神」と、聖書の神、創造主を批判する人がいます。私はこれを、ある意味良い事だと思います。批判は考えを整理するのに役立つ場合があるからです。
しかし、その意見や見解にも、疑問や批判を持たなければならない事までは多くの場合はしないのです。それが問題です。

虐めのような間接的であっても、殺害のような物理的であっても、戦争のような時の事象であっても「人殺しは良くない」と、皆が言います。それは正しい事です。

最初に書いた罪の定義ですが、罪人は死に定められると聖書の最初の書から記されています。

「自分を崇めないと殺すのか!」と考える人がいるかもしれません。ここように考える事も、大事な事です。神は人を思慮深くあるように勧めています。考える事は人の特権でもあります。




そろそろ上記の批判に答えましょうか。

「私の命」「あなたの命」「彼等の命」

どれも正しいのですが、命の真の所有者は、それを生きる者にした神のものなのです。
「生まれよ」
「生きよ」
そうして神が与えた者なのです。

この今の世の始まりから、人はこの世の統治権を神に任されています。
命をつなぐ(子孫を残す)事も統治権のひとつです。

次に、身体が生きる為には水や食べ物が必要です。同じように命もまた、栄養が必要なのです。

英語が苦手なので引用したくありませんが引用しますね。私が歌の歌詞にと考えた骨組みの文章です。



If I have thirsty, Please yours water to me.
That water comes up from a spring in my heart,
and it causes me to have true life.



「私が乾いているならあなたの水をください」と求めています。
これは命の栄養を求めているのと同じです。霊や魂、命と表現されるそれは、神からの栄養補給が無ければ続きません。いつかは干上がって枯れてしまいまいます。
神は命の源です。心の中や私のうちと表現されるところに泉が湧くとは、命の源泉である神がそこに留まる事を意味します。

さて、神を無視する。つまり神を捨てて生きるとどうなるのか?という最初の問題に戻ります。
遅かれ早かれ死にます。命が尽きるからです。

神を捨てて生きる事は、命を捨てる(殺す)事と同じ意味なのです。
つまりですね、殺しているのは神ではなく人であるということです。神は「死んでしまうといけないから」とそれを引き止めたのです。

それでも人は命の源を捨ててしまいました。そこで神は、別の方法で命を殺してしまう事から人を救う方法を実行したのです。それがゆっくり成就をしながら進行している聖書預言です。

神から離れた世が人に与える常識や考えは、基本的に真理とは逆というパターンが多いです。

最近のアニメで天使とは、無気質で無慈悲で勝手なイメージのあるものになっていますよね。あれは実際には堕ちた天使の姿です。それに対して人間味溢れる寄り添う理解者のようにサタンや悪魔が描かれています。
そうです。逆なんです。
人って割と素直さを持った生き物なので、与えられた情報をそのまま吸収しやすいんですよ。ちょっと気恥ずかしいかもしれませんが、これを読んでるあなたもけっこう素直なのよ(笑)

なーんであんなのに騙されちゃったんだろう?
その目に弱いw
こんな事ありません?
本当は自分には関係無いんだけど…でも仕方ない!人肌脱ぐか!なんて、ついしてあげちゃう事ありません?
人は結構素直なんです。
亭主関白な波平だってフネさんのいう事はスッときくでしょ?あぁ、あれはアニメかw

※この投稿には おまけの余談投稿 があります。
※更に続きがあります。『『静かに続いている霊との戦い』
posted by Mako at 14:42| 聖書関連

2021年01月12日

ナショジオの記事読みました?



あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。
恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。
あなたを攻める者は、あなたによって倒される。
見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。
あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。
また、 さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。

イザヤ 54



イザヤ書には多くの引用しらい箇所があるので、選択が難しいです。

▼ナショジオに興味深い記事があります。
2700年前の封印を発見、預言者イザヤのものか?

このイザヤの書簡ですね。

神は、祝福や幸いも創造するが、災いをも創造する。時々これを忘れます。
武器を鋳造する職人を作る者の創造主が神ならば、それを破壊する者を創造したのもまた神です。
これはサタンや悪霊達にも言える事ですよね。
それを創造したのもまた神なのです。

人は言います。
「もし神がいるのであれば、何故世界はこのような有り様なのだ?」
聖書は答えます。
「世から神を排除し、それぞれが自分の好む物を神とした結果である。』と。

神を、自分に好ましい物に定義づけ、それと比較して見合わないので「神はいない」と言う。偶像が生まれてきた経緯です。
戦をすれば戦いの神や勝利の神を求め、戦の後の惨状を慰める母人のような慈愛の神を求める。
病になれば癒しの神を求め、何かを憎めば呪いの神を求める。
恋すれば縁結びへ行き、嫌になれば縁切りに拝みに行く。
『自分が神として必要とするもの以外は神として認めない』事が聖書の言う罪、創造主への裏切りです。

「自分を信じる」「金だけは裏切らない」こういtら物も性質は同じです。

前の投稿で、私に手袋をプレゼントしてくれた保険の先生の事を書いたのですよ。私はとても嬉しかったので、先生にも何度もお礼を言ったし、寝る前のお祈りでもお礼を神さまに言うわけです。

「おい、良くしてくれたのはその先生だろ?神じゃない」と言う答えもここにあります。
その人を創造したのもまた神です。そして、そのようにして行動してくれたその先生に報いてくださるのもまた神なのです。



あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

マタイ10:40〜42



さて、様々な困難や災いが起こるとき、神からのものなのか?についても考える事があります。ヨブ記は正にそれです。ヨブは最後まで神を信頼しました。
それが神からのものかをジャッジする事もしません。私もそのようでありたいと願います。
全ての時が満ちると、明らかにされる事になります。それまでわからないのは、私達人間には理解出来ないので覆われているのだと思います。

神は私達の生みの親であり、良き夫、妻であり、生涯で絶対に裏切る事の無い親友です。

ふんぞりかえって拝ままれる事、崇拝される事を強いるサタンや悪霊達のようではありません。かえって私達よりも腰を低くして、人に尽くすようにしてそこにおられます。神を探すのに上を見ても見つかりません。低いところにいる神を高く掲げるので上を見るのです。




預言者イザヤは、他の預言者とは少々違います。
「ここに私がおります。私を遣わしてください。」こうして名乗りをあげた事から預言者人生が始まります。

その他の預言者とは少々違う預言者イザヤは、今日黙示録預言に向けてのキーになる多くのメシヤ預言を託されました。
メシヤキリストを拒んだのがユダヤの民でありながら、それを預言したのもユダヤの預言者です。
また、ユダヤ民族は、黙示録総仕上げを招き入れる事になる鍵となる民です。ですからサタンや悪霊達による多くの困難を経験しました。血を混ぜて民族浄化しようとしたり、民族の根絶に追いやられたり。
しかし、古い色々な物が発掘、発見され、ユダヤ人達の間に分裂が起きています。

『あの磔刑になった男、イエスは何者か?』

これです。これで分断が起きています。



わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
マタイ 10章



メシヤは平和や調和をもたらすのでは無いのか?イザヤの預言からだけでも粗方理解できます。
ユダヤ民族が神の賎民と呼ばれるようになったのは、メシヤを世に迎える為です。



神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

創世記 3章



イエス降誕はラインを引いた箇所成就の段階なのです。
人に理解できる平和は、もっとずっと後です。人の定義する平和は神のそれとはかなりズレがあります。人は全てを熟知できない中からの最善を選ぶだけなので不完全なのです。

その平和が来る、それを招き入れる役割を果たすのがユダヤの民です。

サタンは終わりが近い事を悟ると悪霊達と共に暴れ出します。スピリチュアルブーム、自己啓発、善悪の逆転現象。あげればキリがありませんが、そのような物が盛んになるほど、預言の時が動いている事を考えさせられます。
そしてやっぱり改めて思うのです。

「それを創造したのも神である」と。全てが預言成就に向かって動いていると感じるときに考えます。

posted by Mako at 12:52| 聖書関連