2020年04月08日

終わりってその終わりではないから(汗)

世界中で、コロナをきっかけに「終わりが始まった」と言っているけれど…
えっと…

そうでは無くて…あせあせ(飛び散る汗)

近づいたことのひとつの準備のようなもの。そう考えれば気が楽になるのではないかと…
近づけば起きることのひとつ。その時代の中にいて、それをどう見るのかが大事だと。

それよりも、生活と収入に不安を覚えている人々をよく見ないとたらーっ(汗)
ウィルスが無くても人は殺せる。そのうちのひとつです。

霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
Uテサ2章


とっても大事な聖書箇所です。
騙されないように=騙す者や物がいつも身近にあります。
再臨もそうです。

そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。
だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。
だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
マコの13:21〜


私達が望まない彼はいつ出るのか?

あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
Uテサ2:6〜


引き止めているものがあるうちは、まだそれは出ません。

イチジクの木はどうですか?あのイチジクの木は、いつも通りに寝起きしています。そろそろ風が吹こうとしています。その準備のため、麦が育ち続けています。
全ての事が起こり終わるまでは先に進みません。
しかし近いのです。

マラナータ主よ来てください。アーメンである方を待ち望む者が、最後まで知恵ある者であるように。
posted by Mako at 13:56| 聖書関連

2020年03月04日

イナゴの大群

▼中東地域のニュース映像。


日本人の考えるイナゴと違って、あちらでは『軍隊』と呼ばれたりする。
大きいし、羽を広げて風に乗れば、時速15〜20kmで移動できる。
あちらのイナゴの羽音は軍隊の音のように響き、1度に何十キロも離れた場所へ移動できる。
イナゴの大群が押し寄せると、野の草や作物、木になっている実の数々も食い尽くしてしまう。そしてまた、羽を広げて大群で去って行く。
これらが、押し寄せる軍隊のように言われる理由だ。
略奪の限りを尽くして次の土地を目指す。

ニュース映像でもわかるように、10年もの時間をかけて力をつけたこの群れは、国連が発表した通り深刻な問題となっている。




さて、イナゴの大群が押し寄せる。これは聖書物語のモーセの箇所に出てきます。
旧約聖書の出エジプト記8章あたりですね。
世界ではこれを10の災い、学説によっては9の災いと呼んでいます。

ナイル川が血に変わる事から始まり、どんな灯りも役に立たないほどの暗黒が訪れ、長子が死にます。

聖書の神とモーセ、そしてアロン(アロンの杖の)。この災い対決は何を言わんとしているのでしょうか?

古代エジプトの宗教観は生と死の循環です。
太陽の神と水の神のように、生と死と再生が基盤となっているのです。
水はヌン、太陽神はラー。聞いた事がある名前ですね。
ナイル川にはヘケト(水の女神)がいます。その姿はカエルです。

血は命を象徴するものでもあります。

生命の源のひとつとされる水が血の色に変わる。
カエルが飛び出してきて人への災いとなる。
生命の根源となる太陽が闇となる。
長子はその家の世継ぎです。古代エジプトでの長子は別格扱いされていました。
その家の世継ぎであるという事は、ラーの息子として神権を授かったラーの子ファラオが統治する世を継ぐ者です。彼等はこの神々に仕えます。
そして最後の最後に、ファラオが水に飲まれて死にます。

つまりですね、古代エジプトの神々とされるものを、聖書の神が打ったと考えるわけです。

災いの中にあるぶよは現代語で訳するのが難しく、犬にまとわりつく害虫や害獣のようなものと言われています。
犬と言えばアヌビス。
まじないにも多く犬が使われ、エジプトの地下墓地からは犬の死骸が大量に出てくるそうです。犬が足りない時期には、猫を犬に見立てたものまで見つかるのだとか。

古代エジプトの神話を書いたテキスト的な数々のものは、必ず儀式とつながっている。
だから、モーセとファラオの面会の度に呪法師が出て来るわけです。

これら儀式と呪法師のもたらす技は、ファラオの神権と正当性を後ろ盾するものでした。
当時、エジプトに逆らえる国や民族はありません。良く潤って統治され、力がありました。これらに打ち勝ってエジプトを出た。だから他の民族や部族はこれを恐れた。
イスラエル民族が不信仰の故に戦に負けるまでは…




と、まぁ…
こんな感じで話を閉めます。聖書をあまり知らない人に合わせて書いてみました。
黙示録にもイナゴが出てきますよね。
だから「イナゴの大群が」と聞くと、ちょっとドキドキします。


posted by Mako at 06:50| 聖書関連

2020年01月23日

時には直感力や感性で聖書を読んでみる

もうランチは済みましたか?私のランチは味噌ラーメンですよー!わーい(嬉しい顔)




聖書の出エジプト記の16章4節は、私の好きな聖書箇所です。

外国語で聖書を読むとき、直接日本語で読むよりも、感性やイメージが広がります。
別に英語でも良いのですが、英語だと既に学習している人が多いので、ちょうど私が好きで学習している言語『イタリア語』を使って雰囲気を味わっていただこうと思います。

敢えて日本語訳せずに、単語の意味(この場合はこの意味というものを含む)を先に羅列して、下に原文を書きました。

単語の意味を読んだら、そのまま原文を読んで、文章の意味をイメージで読み取って下さい。
この箇所は長いので前半の少しだけを書きました。


  • allora
    (アッローラ)
    そのとき、その瞬間。

  • il signore
    (イル シッニョーレ)
    主、主人、あるじ 、所有者。

  • disse
    (ディッセ)
    (彼は)言った(遠過去)。

  • a Mosè
    (ア モーゼ)
    モーセに。




Allora il SIGNORE disse a Mosè,
(アッローラ イル シッニョーレ、 ディッセ ア モーゼ)



  • ecco
    (エッコ)
    さあ、ほら。

  • io
    (イーオ)
    私。

  • farò
    (ファロ)
    (私は)するだろう、引き起こすだろう。

  • piovere
    (ピオーヴェレ)
    降る、落ちて来る。
    piovere dal cielo で、思いがけないものが届く。
    (かなり意図的に言えば、労せず思いがけない幸運が降って来るを意味する『棚からぼた餅』風)

  • pane
    (パーネ)
    パン
    日本人の思う固形物のパンというよりも、パンとなる素材を混ぜ合わせて作った食べ物のイメージが強い単語。

  • da(l)
    (ダル)
    〜から(〜は場所や起点。 l は定冠詞で、the やit'sのようなもの。

  • cielo
    (チエッロ)
    空、天

  • per voi
    (ペェル ヴォーイ)
    あなたがたのために




Ecco, io farò piovere pane dal cielo per voi...
(エッコ イ-オ ファ-ロ ピオーヴェレ パーネ ダル チエッロ)


どうでしょう?訳文無しだとイメージや感性で理解できませんか?
日本語で直接読むよりも、幅広い感性で読めるので、外国語聖書を読むのが好きです。
(n´∀'n)ネ-♪

では、日本語訳を新改訳聖書で読みましょう。今度は4節全体です。


主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」


日本語訳になった途端、少し事務的な文章に感じてしまうのは、母国語だからですね。




『パン』と言うと、日本語では、あのパン類を指します。しかし、pane(ラテン語pānis)はその素材、つまり、材料全般を指すイメージなのです。
イタリア語では、単数形と複数形の別がはっきりしています。しかし、 pane は、材料のイメージの単語だから、そもそも複数のものが混ざり合った素材なのです。
ですから、この単語の複数形はありません。
食べる『パン』がいくつテーブルの上にあろうと単数形のみが使われます。
他に『水』acqua(アックア)も複数形がありません。コップに入った水なら、コップを数えて複数形にできますが、水単体は複数形にできません。

『pane』はそもそも、いくつかの素材を混ぜ合わせた物の名詞なので、pane 〜 といえば、ケーキの名称をあらわす事も出来ます。

人が生きる為の糧となるもの。それが pane なので、出エジプトに書かれているパン(pane)が、私達の思い浮かべる食パンやあんぱんのような物では無い事がわかります。

人の糧となり得るもの。人を養うもの。人を満たすものが、思いがけず天からの贈り物として降って来る。
このイメージを持って読めれば、わざわざイタリア語で冒頭を読んだ意味があると思います。




毎日1日分を集める。
翌日まで残しておくと腐敗する。

聖書の言葉も、今日は今日の分だけで無いと、いつのまにか、その言葉が律法や法律のように心を縛り、かえって重荷になることがあります。

問題ひとつにしても、その問題はその問題。別の言葉別に分けて神の御心を求めるのが良いのでしょうね。

マナ(天からのパン)は、週に一度だけ、翌日の分を集める事ができます。
現代で言うところの主日、ユダヤ教徒にとっては安息日(土曜日)ですね。
神が天地をつくられたとき、全てを作り終えて休まれた記念の日です。
キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが復活して現れた日(日曜日)です。

人と人との間では分かち合いの日。
神と人との間では、人が神に感謝をお返しする日です。
「1週間、護り養っていただきありがとう。」そう神に感謝を捧げる日なのですが、人が糧を失わないよう、前もってその日の分を、先に人に与えてくださるのです。

こういうところが…
神が父と呼ばれ、時には母のようにも書かれ、人を神の子供達と呼ぶかたちが現れていますよね。

親は子の心配をするものです。関係が正しければ。
子が空腹で泣く前に、準備しておくのは賢い親です。




天使、つまり御使い達は、あくまでも使いの者です。
神に立ち返った人々は、神の子供達です。
使いの者より子供の方が、権利や立場も上です。

天使達が嫉妬するほどの存在が人の子なのですよねー。
1人の人から罪が入ったかの日から、天使達は、かえって私達に崇拝される存在のようになっています。逆転しているのです。
この事を考えると、悪魔の悪意を思います。
だって、正しい神の御使いなら、崇拝されたら「やめなさい」と言うでしょう?(黙示録等)

神に変わって崇拝されたい者、それが悪魔です。
悪魔は神の偶像です。

ですから偶像(イタリア語ではidolo、英語ではidol)と呼ばれる職についている人や、それに類する職業についている人が、時々虚しく見えてしまいます。

そのうちその事についても書きたいですが…

とにかく、違う言語で『直感力』を用いて聖書を読むのも時には楽しいものです。
しかし、理性も大事です。
直感力だけではあらぬ方向へ行きかねない。それを抑えるのが知性と理性です。

よいバランスを保って、聖書を味わっていきたいです。
posted by Mako at 13:37| 聖書関連