『 神の国の生き方的な話 』に繋がる話なのだけれども…
今『しかし、最後まで耐え忍ぶ者は…』と言われている時代に入っている事を考えながら書いています。
ある人がクリスチャンになるとき、そして、その親や家族の反対が強固だった場合の事を考えてみて欲しいのです。
人がクリスチャンになる事は、イエスがキリストである事を信じ、御霊によって「イエスは主である」と告白する事から始まります。
ですから、両親や家族に「私はクリスチャンになります」と告白するときには、既に命へ移っている事になります。
親子喧嘩状態になったり、教会へ行くのを阻止されたり、「私がクリスチャンになる事はこんなにも困難な事なのか…」と悩む事もあったと思います。
すんなりクリスチャン生活に入れた方も、このような悩みを持つ兄弟姉妹の話を聞いた事があると思います。
当事者である兄弟姉妹は、喜び踊りあがるべきだし、当事者ではなくて、それを聞いた兄弟姉妹の方は、羨ましいと感じるべき状況です。
自分の家族がクリスチャンになると聞いて大反対するぐらいだから、宣教師や伝道者の言葉なんて聞かない人々です。
TVや映画等のメディアで関連する事が放送されていても「はいはい、キリストさんね。」と通り過ぎてしまう人々です。
けれど、自分の息子や娘、家族と衝突すれば、
その、苦悩の中にいるクリスチャンが、その人にとって大きな壁であり、障害である強固な人々に、『神の御言葉が伝えられ
既に御国の一員である事が証明され、そこから
すんなりクリスチャン生活に入れた兄弟姉妹が、羨ましいと思うのは当然の事です。
あの聖書に出てくる預言者達もそうでした。使徒達もそうでした。弟子達もそうでした。
強固に反対され、受け入れられず、
もし、やがてその人がクリスチャンになる事を認めれば、その人の頑なに閉じた扉の隙間から光が刺す瞬間を目撃するようなものです。
これは信仰者にとって羨ましい事です。
それらを経験できなかったクリスチャンは、共に祈る事や、一緒に悩む事によってお裾分けをいただくしかありません。
お裾分けをいただくクリスチャンは、
だから、それすらも味わう事ができない無教会派や、今その状態にいる人は可哀想なのです。
それを味わったクリスチャンへりくだる事が必要です。
-
辛 かったけど頑張った。( - 悲しかったけど耐えた。
- 絶望したけど立ち上がった。
このような考えは捨てなければなりません。
その人がしたことは「ただ信じた」以外には何もありません。
あったとしても『開かれた御言葉に従った』という行為だけなので、「私は主の命令に従いました。」や「御言葉の通りにしていただけです。」と、全員が言うべきです。
実際のところそうではありませんか?その事によって誰かを憎んだり怒ったりした瞬間があるはずです。
共に悩んだ人も反対者や、ある場合には、悩みを共有している兄弟姉妹の言動に苛立ちや失望を感じたり、何かあったはずです。
長引けば「まだ解決しないのね」と後回しにしたりした事があると思います。
反対者が両親であれば『父と母を敬え』に逆らいますよね。『敵を愛しなさい』『
それが自分の本心であり本質です。
それを乗り越えてもたらされた奇跡は、神の御手のわざですから、神に栄光を帰すべきです。
自分は本来の性質や本心があって、本来受けるはずのない光栄を主から賜るに過ぎないのですから、自分を高くあげてはいけません。
私が今日この事を書いたのは、自分の経験によります。
いや、クリスチャンになる為に反対者があったとかいう話ではなくて、困難や苦難の中にあって、御言葉を知らない人、福音を聞いた事も無い人にそれが届けられる結果になった。その経験からこれを書きました。
実際のところ、私がこれらの只中にあって、神に栄光を帰したのは、ずっとずっと後になっての事でした。
それを諭してくれる兄弟姉妹や教師が身近にいなかった事も原因にあると思います。
- 私は頑張った。
- 私はそれでも主を信じた。
このような思いを持って、何かある度に「神さま、どうしてよ?」と高慢な姿勢で訴え続けていました。
それが益々、信仰の目を塞ぎ、霊が覆われたのです。
ココに書いた夢の話の一部も、苦しみ悶えて憐みを請い、数日それだけを言い続けながら泣き暮らしていたときに見たものです。
色々な事を経験したり通ったりする中で、私が新しく知ったというか、信じた事があります。
クリスチャンという生き物(笑)は、「死んだら天国に行ける」というようにではなくて、既に移されているのだという事です。
だから、立場的に言えば
ですから「クリスチャンとは寄留者だ」という表現は、私にとっては真実なのです。
そしてこれもまた、生きた神の言葉として働いています。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
マタイ5:11〜12節
さて、冒頭に書いた『しかし、最後まで耐え忍ぶ者は…』ですが、これは、
クリスチャンがクリスチャンだというだけで困難な時代が既に強くなっています。
教会が異教に買い取られ、あちらこちらでクリスチャンがクリスチャンだという理由で襲われて殺されています。
これは東住吉の高原さんの言い方を使わせていただきますが…
ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
エゼキエル38:16
わたしの地=イスラエル。これを攻めるだろうかの国が『殺されているキリスト教徒を守る』という大義名分を看板に掲げ、周辺地域の
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
Uテサロニケ2:6
終わりの時に現れる獣を引き止めるものが減ってきています。
教会は始まりからずっと、困難と迫害の中で、先人達の多くの死と共に増え広がりました。
しかし今は逆です。
就寝時間が来ると、夜のベットタウンから灯りがひとつずつ消えていくように灯りを落とし始めています。
クリスチャンがクリスチャンである。キリストの御国の民であるが故に起こる事は、クリスチャンになった時に身近に起こる困難のように『信仰を着る』事で耐える覚悟が必要な時期が迫っているように思います。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人5:2〜5
耐える事は自分の力ではできません。
クリスチャンがクリスチャンになった時に身近に起こった困難のように「ただ信じる」事によってだけ通過できます。
信じる事は絶対的に信頼する事であり、また、愛する事です。
見知らぬ他人にはできなくても、愛する子、親、兄弟の為にはできる事はたくさんあります。愛する故に信頼し合っているからこそできる事です。
神の愛を信じ、信頼するなら、それはそれ以上のものです。
そしてその強固なものは、
クリスチャンと主が繋がっているからです。
民族としての象徴的なものも灯りを消し続けています。
私達の時代に起きている事は、今に生まれて生きている私達の時代の出来事です。
先人の信仰者や預言者達のものではありません。
私達の時代のクリスチャンが頑張らないで誰が頑張るのでしょうか?
『戦いは主のもの』ですから、私達は勝どきの声を上げるまで、信仰で武装し、城壁をまわるだけです。
何を担当したいですか?
角笛ですか?それとも士気を保つ楽曲でしょうか?
それとも主の兵士を増やしますか?
列に並びます?
キリスト教の仮面を被って、暴虐や人殺しを行う軍隊ではなく、愛と信仰によって戦う真の神のですよ。
まぁねぇ…これに加わらずして、勝利を宣言する時だけひょっこり顔を出すお調子者になりそうな私をどうするか?
この課題がでかいっす
