2020年01月23日

時には直感力や感性で聖書を読んでみる

もうランチは済みましたか?私のランチは味噌ラーメンですよー!わーい(嬉しい顔)




聖書の出エジプト記の16章4節は、私の好きな聖書箇所です。

外国語で聖書を読むとき、直接日本語で読むよりも、感性やイメージが広がります。
別に英語でも良いのですが、英語だと既に学習している人が多いので、ちょうど私が好きで学習している言語『イタリア語』を使って雰囲気を味わっていただこうと思います。

敢えて日本語訳せずに、単語の意味(この場合はこの意味というものを含む)を先に羅列して、下に原文を書きました。

単語の意味を読んだら、そのまま原文を読んで、文章の意味をイメージで読み取って下さい。
この箇所は長いので前半の少しだけを書きました。


  • allora
    (アッローラ)
    そのとき、その瞬間。

  • il signore
    (イル シッニョーレ)
    主、主人、あるじ 、所有者。

  • disse
    (ディッセ)
    (彼は)言った(遠過去)。

  • a Mosè
    (ア モーゼ)
    モーセに。




Allora il SIGNORE disse a Mosè,
(アッローラ イル シッニョーレ、 ディッセ ア モーゼ)



  • ecco
    (エッコ)
    さあ、ほら。

  • io
    (イーオ)
    私。

  • farò
    (ファロ)
    (私は)するだろう、引き起こすだろう。

  • piovere
    (ピオーヴェレ)
    降る、落ちて来る。
    piovere dal cielo で、思いがけないものが届く。
    (かなり意図的に言えば、労せず思いがけない幸運が降って来るを意味する『棚からぼた餅』風)

  • pane
    (パーネ)
    パン
    日本人の思う固形物のパンというよりも、パンとなる素材を混ぜ合わせて作った食べ物のイメージが強い単語。

  • da(l)
    (ダル)
    〜から(〜は場所や起点。 l は定冠詞で、the やit'sのようなもの。

  • cielo
    (チエッロ)
    空、天

  • per voi
    (ペェル ヴォーイ)
    あなたがたのために




Ecco, io farò piovere pane dal cielo per voi...
(エッコ イ-オ ファ-ロ ピオーヴェレ パーネ ダル チエッロ)


どうでしょう?訳文無しだとイメージや感性で理解できませんか?
日本語で直接読むよりも、幅広い感性で読めるので、外国語聖書を読むのが好きです。
(n´∀'n)ネ-♪

では、日本語訳を新改訳聖書で読みましょう。今度は4節全体です。


主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」


日本語訳になった途端、少し事務的な文章に感じてしまうのは、母国語だからですね。




『パン』と言うと、日本語では、あのパン類を指します。しかし、pane(ラテン語pānis)はその素材、つまり、材料全般を指すイメージなのです。
イタリア語では、単数形と複数形の別がはっきりしています。しかし、 pane は、材料のイメージの単語だから、そもそも複数のものが混ざり合った素材なのです。
ですから、この単語の複数形はありません。
食べる『パン』がいくつテーブルの上にあろうと単数形のみが使われます。
他に『水』acqua(アックア)も複数形がありません。コップに入った水なら、コップを数えて複数形にできますが、水単体は複数形にできません。

『pane』はそもそも、いくつかの素材を混ぜ合わせた物の名詞なので、pane 〜 といえば、ケーキの名称をあらわす事も出来ます。

人が生きる為の糧となるもの。それが pane なので、出エジプトに書かれているパン(pane)が、私達の思い浮かべる食パンやあんぱんのような物では無い事がわかります。

人の糧となり得るもの。人を養うもの。人を満たすものが、思いがけず天からの贈り物として降って来る。
このイメージを持って読めれば、わざわざイタリア語で冒頭を読んだ意味があると思います。




毎日1日分を集める。
翌日まで残しておくと腐敗する。

聖書の言葉も、今日は今日の分だけで無いと、いつのまにか、その言葉が律法や法律のように心を縛り、かえって重荷になることがあります。

問題ひとつにしても、その問題はその問題。別の言葉別に分けて神の御心を求めるのが良いのでしょうね。

マナ(天からのパン)は、週に一度だけ、翌日の分を集める事ができます。
現代で言うところの主日、ユダヤ教徒にとっては安息日(土曜日)ですね。
神が天地をつくられたとき、全てを作り終えて休まれた記念の日です。
キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが復活して現れた日(日曜日)です。

人と人との間では分かち合いの日。
神と人との間では、人が神に感謝をお返しする日です。
「1週間、護り養っていただきありがとう。」そう神に感謝を捧げる日なのですが、人が糧を失わないよう、前もってその日の分を、先に人に与えてくださるのです。

こういうところが…
神が父と呼ばれ、時には母のようにも書かれ、人を神の子供達と呼ぶかたちが現れていますよね。

親は子の心配をするものです。関係が正しければ。
子が空腹で泣く前に、準備しておくのは賢い親です。




天使、つまり御使い達は、あくまでも使いの者です。
神に立ち返った人々は、神の子供達です。
使いの者より子供の方が、権利や立場も上です。

天使達が嫉妬するほどの存在が人の子なのですよねー。
1人の人から罪が入ったかの日から、天使達は、かえって私達に崇拝される存在のようになっています。逆転しているのです。
この事を考えると、悪魔の悪意を思います。
だって、正しい神の御使いなら、崇拝されたら「やめなさい」と言うでしょう?(黙示録等)

神に変わって崇拝されたい者、それが悪魔です。
悪魔は神の偶像です。

ですから偶像(イタリア語ではidolo、英語ではidol)と呼ばれる職についている人や、それに類する職業についている人が、時々虚しく見えてしまいます。

そのうちその事についても書きたいですが…

とにかく、違う言語で『直感力』を用いて聖書を読むのも時には楽しいものです。
しかし、理性も大事です。
直感力だけではあらぬ方向へ行きかねない。それを抑えるのが知性と理性です。

よいバランスを保って、聖書を味わっていきたいです。
posted by Mako at 13:37| 聖書関連

2020年01月10日

いわゆる聖書の終末預言〜エゼキエル書

次回投稿の前置き投稿です。
聖書の話として続くかは、まだ考えていません。




以下は、まだ起きていない聖書預言のひとつです。

※まだ起きていない=これから起こること。

要点だけわかるように文字色を変えて引用しました。


多くの日が過ぎて、 あなた は命令を受け、 終わりの年に、一つの国に侵入する。

その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。

その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して 住んでいる。

あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。

エゼキエル書 38:8〜9


聖書の文体は、要点をやあらましを予め述べてから、細かい本題に入るという手法がよくとられています。
創世記の天地創造が、聖書を熟知しない人にとっては順番がズレたりするのはそのせいです。

預言書にも、こういう事が起こります。

演説等で、まず人の興味をひいてから中身を話すような事があります。特に、その言語的特徴であったもしますよね。
ヒットラーの演説はドイツ語だからこそ効果的なのであって、日本人にはネイティブほどの効力が無かったりします。

そのような言語や文化圏の壁を越えて、日本語に自然なように翻訳されているので、間違って解釈しやすい箇所も多いです。
言語の壁の限界ですよね。




現在イスラエルは、世界各国から集められたユダヤ教徒が住む国になっています。
元のイスラエルの民が、世界中に散らされてから大雑把に数えて2千年からの時間が過ぎた後で、古代国家が再建されたのです。

日ユ同祖論を言う人は、どれぐらいの日本人が、イスラエル国民になっていると考えているのでしょうか?
この問題にも、後でまた少し触れますねー。

聖書の預言が成立する要件が、ひとつ整えられている事を覚えていただきたいと思います。

イエスの言葉を引用しましょう。


※2=いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

※1そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

マタイ 24:32〜35


※1は、先に引用したエゼキエル預言を含みます。
時々、「旧約聖書の聖書預言は、全て成就した(終わった)。」と言う人がいます。
それは誤りです。おそらく、必要な箇所を飛ばし飛ばしに読んでいるので、そう思ってしまった人の会社を信じているのだと思います。

預言の舞台になる国は、預言されたままの状態で今イスラエルにあります。
聖書預言では、全ての事が終わると、人の子(イエスキリスト)が天から降って来る事になっています。これが、世で言われる聖書の終末預言です。クリスチャンにとっては新時代の幕開けですが^^

もう一度エゼキエル預言に戻ります。



多くの日が過ぎて、 あなた は命令を受け、 終わりの年に 、一つの国に侵入する。



人の子が到来する(終わりの前)に起こる事だとわかります。

イエスからの引用※2は、古い国、イスラエルの再建と考えて、両方の預言を読んでみてください。

『枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。』

いちじくの旬は夏。夏が来れば実を収穫するのみですね。
もう実を熟す(預言が成立する)準備が整いましたというしるしのひとつ。それがイスラエル再建なのです。




さて、先日私は、太陽の石と呼ばれるカルサイトについて書きました。 ココ
バイキング達が方位磁石がわりに使っていたとされる石の話です。

バイキング(海賊)=ノルマン人は、国を建国したり、植民地を持ったりしていたわけですが…

彼等が建国して定住した地がキエフです。※Googleマップ

キエフに移り住んだバイキングと現地人の子孫がロシア人です。

さて、ここでエゼキエル預言に戻ります。
イスラエルに攻め込むあなた(国)とは誰でしょうか?

引用したエゼキエル預言の少し前を引用します。



人の子よ。 ※4メシェクとトバルの大首長である※3マゴグの地の※4ゴグに顔を向け、 彼に言して、言え

エゼキエル書 38:2〜3



あなたが誰か明確になりました。

マゴグの地は、語源Καύκασοςで、英語ではコーカサスと呼ばれ、現地ではコフカースと呼ばれ、日本語ではコーカサス(諸国)と呼ばれる地域で現ロシアです。 外務省サイトに詳細があります。

メシェクはモスクワの語源とされる語でトバルはトボリスクで、どちらもロシア領です。ですから、大首長=現ロシアとなります。
posted by Mako at 20:52| 聖書関連

2020年01月04日

聖書通読のススメ

聖書通読が、今年に入ってまだ創世記3章までしか進んでませんがく〜(落胆した顔)
これまでなら、おくれた分を早いうちに詰めるのですが…
今年からはゆっくりいく事にしました。

年内に終わらなくても、その続きを来年に持ち越しても気にしない事にしたんです。




人が知らない事ってたぁーくさんあるじゃないですか。
例えば、地上の生物をぜーんぶ1箇所に集めて、その重さを計ったとします。
その重さの4分の1は、(あり)が重量を占めるのだそうです。
あの小さくて、足を登ってきてもこそばゆくて気がつく程度の体重しか持たない蟻が4分の1の重量を占領するんですよー。
この地上にどんだけ蟻いんのよって思いますよねー!
って事はですよ、下手すると、生息数ではトップクラスかもしれないですよねー!だって、象一匹分の重さの蟻だって、どれだけの数よ?ね?

常識だと思ってる事だって、それが間違いかもしれない。そういう事も多いです。
例えば、TVドラマなんかで見かけるクロロホルム。
誰かを連れ去る時に使ってるじゃ無いですか?ハンカチに含ませたもので相手の口を塞ぐ。
これって、常識ではあり得ない話だって考えた事あります?

ハンカチにそれを含ませる時も、相手にそれを嗅がせる時も、それを持ってる本人も気を失うのだそうです(笑)
無防備な状態でその周辺の空気を吸った人にも影響が出る薬品なんですって。
ハンカチに染み込ませた物で口を塞がれたら、それが当たった皮膚も無事では無いようですよ。




聖書ってなんでしょうね?
これも、クリスチャンにとってのそれと、ノンクリスチャンにとってのそれとでは異なります。

歴史という意味では、神と人との歴史。これがクリスチャンの見解だと思います。
しかし、ノンクリスチャンにとっては、古代のヒントだったり、宗教史の参考だったり、そういう意味での歴史書になってしまいます。

聖書が何か?この定義が変わると、書かれている内容と捉え方についても変化が生じます。

ひとつハッキリしている事があるのですが、聖書の正しい読み方というのは、法律書と同じです。
何かの一文の為に、別の一文を蔑ろにしてはならない。これが絶対の法則なのです。
私的解釈を無闇に施してはならない。その理由はここにあります。
その場に応じた私的解釈で、本来の意味を殺してしまうとですね、他の文との整合性がつかなくなります。
あれと同じです。一度嘘をつくと、他の事にも嘘をつかなければならないみたいな?

Aの土地をBが安い値段で購入した。
後でAが、契約の無効を主張し、土地を返せと言ってきた。

この場合、正規の契約は取り消す事ができないという条文ひとつで簡単には蹴れないでしょ?
例えば、契約が表面上正規のものであったとしても、詐欺や脅迫による売買であったりする場合があります。
それなのに契約を取り消す事ができないのであれば、なんの為の法整備でしょうか?
詐欺や脅迫による売買契約は、一部は条件をクリアした上で、一部は当然に、契約を覆す事ができるのです。
金額でも、ゼロを1個読み間違えて取引してしまったとか、土地の上の建物も付属すると思ったとか、土地に欠陥がある事を知らなかったとか、そういう錯誤(さくご)(※勘違い等)によっても取り消しができたりするわけです。
けれど、正規の契約は取り消せないという一文だけを用いて他を無視すればどうなるでしょう?

詐欺や脅迫によって入手した土地は、刑罰を受けたとしても、土地は詐欺や脅迫を行った人の所有のままになっちゃうじゃ無いですか。

聖書は、人と神との契約書のようなものでもあります。
過去の事も、これからの事も、契約通りに進んでいる。その契約書なのです。
だから神は、人に何も知らせずには起こさない事を前提に動いている事がとても多いという事がわかる書でもあります。クリスチャンにとってはですけど。
それをどう捉えるべきか?解釈するべきか?そこに自身の見解や解釈をのせるのにも、通読は役に立ちます。

そして、クリスチャンにとってはと限定されますが、蓄えた御言葉は、必ず力になって役立ちます。

だから私は、通読は習慣化すべきだと思います。
posted by Mako at 21:26| 聖書関連