2019年10月12日

ザックリ黙示録の最新UP視聴したー






ノンクリスチャン向けに語られる黙示録。ザックリなんてクリスチャン向けより無理ですってw
とは言いながらも… ザックリ切るところで切らないとな感じですすめられているなぁと思います。

実は私、10日を10年?と時々立ち止まってましたw
荒野の40日40年があるのでつい… でも、そういう時は、それが解き明かされてるのよね。ちゃんと。

字義通り。ノンクリスチャンの方がそれをしない率が高いのは不思議な事だよね、

あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。

ダニエル12:4


クリスチャンでも字義通りに読まない事があるけど(私も)、彼等の場合は「探り回る」のでは無く「勘ぐる」のかな?どちらも真意を変えてしまうので一緒か。私も気をつけないとなぁ。

「どうしてそんな事が起こるのか?」何年も経ってからわかる事もあるし、見えるのは物事の断面にすぎないものね。私なんて、今日使ったレモンの残りを砂糖漬けにしたのだけれど…いつ出来上がるかすら、正しい日数がわからないのよ。早くホットレモネードを飲みたいのに。はちみつが残り少ないのできび糖で漬けたよ。

「わかりません」と言えるのは大変誠実な事だと思います。

クリスチャンが地で解いた事は天でも解かれてる。だから、誠実と謙虚さは、とても大事だと思うの。




人々が黙示録を世の終わりの書だと言っているけれど、クリスチャンにとっては新しい時代の始まりの書なのよね。それって、正しすぎない?こういう正確性も不思議だなぁと思う。


だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、 いま引き止めているものがある のです。

Uテサロニケ2:3〜6


ここの箇所も、クリスチャンによっては解釈が変わるかもしれない。でも私は、アブラハムを思い出すの。

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

創18:23〜26


アブラハムは甥のロトを想い、少しずつ人数を減らし、最後は10人まで数が減っていた。主は「10人の為に滅ぼさない」と答えるでしょ?それで私は『引き止めるもの』を『クリスチャン』として話すの。最近。
正直自信は無いのだけれど(苦笑)

以前ツイッターで、カトリック信徒の方に「神は忍耐して待っておられるのです」とリプされた時に、少々違和感があったの。

多分ここからの言葉だと思うの。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、 神が忍耐して待っておられたとき に、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

Tペテロ 3:18〜20

「神はクリスチャンに対して忍耐して待っておられるのか?」と。でも、クリスチャンだって人だから、罪もおかせば不信仰な時もある。だから良いと言えば良いのだけれど… うーむ… と少し唸ってしまったw

多分、私には見えていない事がその人には見えているのかもしれない。そう考えて聞くことがにしたのよ。

こういう時「これが絶対に正しいのだ。」という答えを持ってなくて良かったと思うの。きっと理屈で返していたでしょうから。




台風の音凄いよ。避難の携帯通知も、びっくりからウザイになり始めた。情報が必要な人がいるのにね。
こういう時、自分の愛の無さを痛感するわ。
posted by Mako at 22:53| 聖書関連

柿のマリネが中途半端

新しい柿のレシピを書こうと思ってから数日。台風のせいで、少し中途半端というか、不完全な状態というか…

レモンマリネにする予定なんて無かったのに、冷蔵庫にあるレモンで間に合わせちゃったたらーっ(汗)
ササミとセットで使いたかったものだから、消費期限の都合で今日だったのよ。どうしても。

柿は、アルコールの分解に優れているから、酒飲みさんのおつまみにピッタリなのよね。マリネやサラダ。

肝臓を壊すとお薬飲めないって知ってた?
いや、一応飲むんだけど、それが肝臓に良くないのよ。
肝臓が処理する事になるでしょ?
だから、肝臓の為に肝臓の薬を飲むとか、結局肝臓に良くないのよ。

疲れたら寝ろ!

それが1番の療法になっちゃうわけ。

それを考えたら、食べ物として身体に入る物も、肝臓が処理するんだけど、どうせつまみ食べるなら、じゃあ肝臓の負荷を下げてくれそうなものが良い。なんて簡単に考えちゃったり…
一緒なのかな?

私は滅多に飲む事は無いので、おつまみになりそうな料理なんて意味無さげなんだけどね。映画を見ている時につまむスナック類は、おつまみレシピがちょうどいいのよ。

柿のレシピの更新は、中途半端とはいえ終わったので。次は、先日作った朝食のおかずを再現できたら更新してみようと思ってるの。

きのこおこわで余ったきのこがあるから、きのこのチーズクリームシチューとかしようかなぁ?
牛乳あるし。生クリーム無くてもチーズがあればごまかせる気がするのよ。いや、簡単にぱすたksなぁ?

パスタって言えばさ、スパゲティをパスタとはイタリアでは絶対に言わないの。ショートパスタ類も名称で呼ぶのよ。
それなのにどうして日本ではパスタって言うのかしらね?スパゲティーの事を。
イタリアのちょっと小洒落たカフェに行って「パスタ!」って注文したらさ、多分カップケーキみたいなのが出てくるよ。
「No!!!パ・ス・タ!」と訂正しても、お店の人は困ると思うわーい(嬉しい顔)
posted by Mako at 15:22| おつまみ

夜明け待ちしながら考え事


みさちゃんの歌ですが、私はこの歌が大好きです。ゴスペルシンガーなので、歌の背景にあるのはJesusが多いです。




聖書にも聖書の神にも、全く興味が無いのに、『ファティマ預言』に興味を持つ人は多いんですよね。日本には。私はもちろん信じていないし、神からのものだとも考えていません。宙の支配者ならやりそうな事ですから…その現象が、実際にあった事は十分に考えられると思います。
あれもまた霊ですから、人の知らない事を語ったりします。聖書に出てくる占いの霊に憑かれた女は、自分の主人達をそれで儲けさせていました。だから、実際に起こる事を語る事もできるのです。あれらは、自分達の終わりの日がいつかも知っています。




『ファティマ預言』を語る人達の中にはこう言う人がいるじゃないですか。
「バチカンの法王で、ペテロの名を持つ人が出たら、それが最後の法王だ。」
彼等が言うには、現法王がそれの可能性が高いそうです。
彼等の知っている事を、私は知らないので理解できませんが…

ペテロは、キリストの一番弟子的存在です。キリストが、人目につかない深夜に、不当な裁判を受け、嘲られ、罵られ、唾をかけられ、からかわれていた時、唯一キリストの近くにいた弟子でもあります。
キリストを想うあまり、そのような行動に出た人です。
私は、本当にこれが素晴らしい行動力だなぁと思うのです。
しかし、その行動が思わぬ結果を生みます。

「この人もあのイエスと一緒にいた」と指摘されると「あんな人は知らない」と否定し、最後には、なかなか酷い否定の仕方をしてしまいます。
ペテロは、復活の主(イエス)によって、この事から立ち直っていくのですが…




私は、みさちゃんのあの歌が好きな理由に『ただ、前に進みたい』と思っている葛藤が自分の中にあるのです。そうさせないものがあるのでもがいているのですが…

失敗をしない人はいないし、間違いを犯さない人もいません。それが人間です。
その度合いと内容によっては、世から罰を受けるような事もあります。

クリスチャンの立場で言えば、昨日失敗した自分はもう死んでいて、今日は新しい自分として朝目覚めるべきなのです。昨日誰かを傷つけてしまったら、今日は、その人を傷つけない自分が目を覚ましている。夜の神との交わりの時間は、その為に大切なのです。
創世記の天地創造では「夕があり、朝があった。第何日目」と日を数えています。
失敗や後悔しなければならない自分が死んでようやく朝が来る。これを繰り返す人がクリスチャンかもしれません。

ペテロは、その日から何日も後悔や苦しみの中にいました。けれど復活の主によって、ようやく朝を迎えたのです。他の弟子達よりも、長い夜を生きていた事になります。




クリスチャンであってもクリスチャンでは無くても、ハッキリしている事があります。

『失敗』に終わった事の続きを頑張っても朝は来ないという事です。それは失敗の後押しをしているに過ぎません。新しい朝が必要なのです。失敗したのにその続きをしても、失敗の深さを掘り下げるだけです。
失敗した事によって得たものが無ければ、人は成長しません。
それでどうするのか?ここです。

クリスチャンは、この点においては…かなりチートしています。導き手となるキリストを持っているからです。
だから、個人的には、キリストを深く知る事をお勧めしたいとこですが…

最近私はこの例えを言葉にしました。
「殴られたら嫌われたから、もう一発殴ってやったみたいな考え方だな。」

これの意味わかります?
殴ったら嫌われたのだから、もう一発殴ったらもっと嫌われるのが当然だと言う事です。道で見かけたら、見つかる前に違う道を通ろうと、相手が引き返してしまうほどに。だって、会ったら殴られちゃいますからね(苦笑)
殴って嫌われたからと蹴りに変えても同じ事です。

こういう事は、愚か者がする事です。
愚かであった自分が死ぬ事で、新しい朝が来ます。そこには「よし!もう一発殴ってやろう」と考える自分はいないのです。この期間が短ければ短いほど、修正がききやすく、長ければ長いほど手に負えません。長くかかった分だけ、自身の愚かさを表しています。

「殴ったら嫌われた。頭に来たからもう一発殴ってやる事にした。」この自分が生きている限り結果は同じです。無意味な努力を無駄に費やしているだけのことです。
「今日は違う結果が出るかも?」と頑張ったところで、それはギャンブルと同じです。オッズが高いほど(期待した結果が大きいほど)勝率は低い。殴られる相手も身を守るのに必死ですから、逃げていきます。追いかけて追いついて殴るを繰り返しているうちに、相手だって死にます。死んでから「殴り過ぎた」と後悔しても遅いのです。

それに…
殴り過ぎた事が問題なのでは無く、殴った事が問題なのです。
殴った力加減や回数じゃ無いのです。




何故こうなった?
これを正確に理解する為には、後悔する時間も必要です。

前に進む為には、前とは違う道が必要なのです。
同じ過ちを繰り返す人より、同じ過ちを繰り返す日々と決別できる方が賢い人なのは言うまでもありません。

私は、イエスさまというチートツールを持っているのでね…
それを少し分けられたならと思います。
窓の外や空、自然… そういうものをじっと眺めながら、彼(キリスト)を思った時に安らぎが与えられる人が1人でもいるといいなぁと。
私は今日の夜にでも、それを祈ってみるよ。
彼は自分の命そのもの。命を与えた親。そう思って心を寄り添わせると、愚かな事をしていた時も、辛かった時も、1人じゃなかったとわかるよ。だって、あなた死んだ事ないでしょ?
その愚かな時代も、辛さも、寂しさも、絶え間なく共にいて同じ経験してる。
命を持った人をどう扱うかは、命のきみである神に何をしたのかと同じ事なのよ。

相手に対してだけじゃない。自分が人から受けた分もそう。裁きの時にはその日々が語られる。
命を大事にする事は、神を大事にするのと同じ。
人は新しい朝を生きられる。絶対に。


posted by Mako at 05:54| 一人じゃないよ